ひびの入った茶碗

婚約指輪を返した帰り、久良木佐和は実家の食器棚から黒い茶碗を取り出した。左手の薬指には、輪だけ白い跡が残っていた。母に見つからないよう台所の灯りだけをつけると、戸棚のガラスに疲れた顔が映った。口縁に一本、白いひびが走っている。高校の茶道部で、最後に使った茶碗だった。

卒業式の前日、部室代わりの和室には佐和しか残っていなかった。三年生の送別茶会は終わり、畳には菓子の粉が落ち、釜の湯も冷めかけていた。後輩へ道具を渡すため、佐和は棚を一段ずつ拭いた。

茶碗を持ち上げたとき、指が滑った。

畳の上だったから割れなかった。ただ、乾いた音がして、縁に細いひびが入った。佐和はそれを両手で包んだまま動けなかった。最後の日まで失敗する自分が、ひどく情けなかった。

顧問は廊下から顔を出し、茶碗を明るい方へかざした。捨てるとも、直すとも言わず、水を注いだ。ひびから一滴だけ、畳へ落ちた。

「薄茶なら、飲みきるまでは持つね」

佐和はその茶碗で、自分のために一服点てた。釜から上がる湯気で前髪が湿り、茶碗の底から掌へぬるい熱が伝わった。誰かに作法を見せる茶ではなく、一口ごとに自分のためだけに減っていく茶だった。泡は粗く、茶筅の音だけが広い和室に響いた。口をつけると、ひびのところだけ少しざらついた。苦味のあとに、送別会で余った砂糖菓子の甘さが残った。

最後の片づけを終えると、顧問は茶碗を新聞紙で包み、佐和へ渡した。紙の角から、黒い縁が少しだけのぞいていた。

「使うかどうかは、あとで決めればいい」

あの頃の佐和は、壊れかけたものを持ち帰る意味がわからなかった。

今なら少しわかる。続けることだけが、丁寧さではない。指輪を返したことも、約束を粗末にしたからではなかった。

佐和は茶碗へ湯を注いだ。やはり一滴、テーブルへこぼれた。布巾で拭き、冷める前に飲みきる。空になった茶碗は、ひびを見せたまま、驚くほど軽かった。

彼女は新しい部屋へ持っていく食器の箱に、それをいちばん上に置いた。