ひびを数えない
夷隅真昼のスマートフォンには、婚約者から七件の着信が並んでいた。
指輪を選ぶときも、新居を決めるときも、真昼の希望は最後には『気にしすぎ』で片づけられた。怒鳴られたことはない。だからこそ、嫌だと思う自分のほうを、真昼は何度も疑ってきた。
式の日が近づくほど、周囲は祝福を増やした。その明るさの中で、真昼の違和感だけが言葉を失っていた。
両家の顔合わせは済み、式場の申込金も払った。真昼が嫌だと言うたび、相手は「疲れているだけ」と扱った。だから今日も、喫茶「片雲」の隅で打っているのは別れの言葉ではなく、〈もう少し考える時間がほしい〉だった。
店主が運んだカップには、縦に二本のひびが走っていた。古い陶器を金属の鎹で留めたもので、銀色の小さな針が、傷口をまたいで四つ並んでいる。
真昼は思わず両手を引いた。
店主はカップを引き戻し、盆の上で静かに傾けた。底にも縁にも雫は出ない。次に白い布で側面を押さえ、布が濡れていないのを確かめると、ひびのある面を隠さず真昼の正面へ置いた。
コーヒーは一滴も漏れなかった。けれど、ひびが消えたわけではない。鎹は修復というより、ここが割れたのだと正確に示していた。
着信が八件になった。
〈延期にしたい〉と打つ。消す。
〈落ち着くまで待って〉と打つ。消す。
カップを持ち上げると、銀の鎹が指にかすかに触れた。冷たい感触だった。真昼は、壊れたことより、壊れていないふりを続けることに疲れていたのだと、ようやく文章にできそうだった。
会計で店主は、カップをすぐ洗い場へ運ばなかった。灯りの下でもう一度ひびを確かめ、帳面の「使用可」の欄へ小さな丸をつけた。可か不可か。曖昧な記号はなかった。
真昼は席に残した画面へ戻った。呼吸を一つ整え、短く打った。
〈延期ではありません。私は結婚をやめます。申込金については、明日こちらから式場へ連絡します〉
送信すると、すぐ着信音が鳴った。真昼は電源を切らず、ただ音量をゼロにした。
二本のひびが見える向きのまま、カップを飲み干した。