エリンギの輪郭

杉浦晃成は、明日から市役所の情報政策課で働く。今夜までいたウェブ企業では、ちょうど明日の午前十時に新サービスが公開される。

 公開日を知りながら転職日を決めたわけではない。市役所の採用日は動かせず、会社側も有給消化を命じた。引き継ぎは終えた。それでも、晃成が書いた認証処理には、負荷が増えたときだけ出る不具合が一つ残っている。再現条件は記録したが、後輩は最後まで「大丈夫です」と笑っていた。

 送別品にもらった小さなキーボードは、まだ包装されたまま鞄にある。『市役所でもコードを書くんでしょう』と後輩は言ったが、実際の仕事は調整と契約が中心だと聞いている。

 晃成は居酒屋「楡」の隅へ座り、古い業務チャットを何度も開いた。退職後も今夜までは閲覧できる。公開に失敗すれば、すぐ気づける。気づいたところで、もう権限はない。

「軽いものをください」

 店主は太いエリンギを縦に裂き、網へ載せた。水分が浮いて、きゅう、と小さな音を立てる。白い身に茶色い筋がつき、きのこの湿った香りへ柚子醤油の匂いが重なった。湯気は細く、すぐ消えた。

 チャットには、後輩が送った最後の文が残っている。

『杉浦さんが抜けても回るところを見せます』

 頼もしい言葉なのに、晃成には「見に来ないでください」とも読めた。市役所へ移る理由は、生活を整えたいからだった。夜中の障害対応も、休日の仕様変更も、もう続けられない。だが明日の公開を見届けずに眠れば、自分だけ逃げた気がする。

「焼いた跡は、裏にも残りますか」

 意味のない質問をすると、店主はエリンギを返した。

「返したら、こっちは見えなくなるな」

 晃成は笑い、チャットの下書きへ、不具合記録の保存場所と、緊急時に確認するログの名前だけを書いた。励ましも謝罪も足さず、送信予約を午前九時五十分にした。そのあとはアプリを削除する。公開が成功するかは分からないし、市役所の仕事が本当に穏やかとも限らない。それでも明日の十時、彼は新しい机で説明を聞く。

 エリンギは噛むと弾力を返し、柚子の香りが遅れて鼻へ抜けた。中心には、網から離れたあとの温度がまだ残っていた。