カーテンコールのあとで

鷹森玖郎は、十五年分の私生活を忘れた。

それでも舞台の台詞だけは、一字も失わなかった。

「身体が覚えているらしい」

医師はそう説明した。

櫛田茉白のことも、身体のどこかが覚えているのだろうか。十二年間恋人だったことを伝えても、玖郎の目には礼儀正しい戸惑いしか浮かばなかった。

復帰公演で、二人は別れる恋人を演じた。

終幕直前、茉白の役が言う。

「あなたを愛していました」

玖郎の返事は決まっている。

「ならば、私を忘れなさい」

何百回も交わした台詞だった。

本番の夜、茉白は彼の顔を見た瞬間、役名ではなく本当の名を呼んだ。

「玖郎。あなたが好きでした。舞台の外でも、ずっと」

客席が静まり返った。

玖郎は一歩近づいた。台本どおりなら、背を向ける場面だった。

「茉白さん」

「台詞を忘れた?」

「いいえ。忘れたのは、あなたです」

その言葉に、客席のどこかですすり泣きが起きた。演出だと思われたのだろう。

玖郎は続けた。

「あなたを知らないのに、あなたが泣くと、取り返しのつかないことをした気がする。これは記憶ですか」

「たぶん、癖」

「では今の僕から言います。あなたが好きです」

茉白は返事をしなかった。

幕が下りるまでの数秒、二人は舞台の中央で見つめ合った。

カーテンコールのあと、玖郎が楽屋へ来た。

「さっきの告白は、本当です」

「私のも本当」

「なら、もう一度――」

「始められない」

彼の顔から、舞台上の光が消えた。

「私が好きなのは、忘れる前のあなたなの。朝の機嫌も、喧嘩の原因も、仲直りの仕方も知っている人。あなたに、その人の続きを演じさせたくない」

「僕は代役ですか」

「違う。だから困るの」

茉白は古い合鍵を化粧台へ置いた。

「あなたは新しい人生を始めていい。私も、失った人を失ったまま生きる」

玖郎は合鍵に触れず、訊いた。

「いつか、僕自身として会えますか」

「そのとき私が、思い出ではなく今のあなたを好きになれたら」

翌朝、新聞は二人の即興を絶賛した。

〈記憶を失った恋人たちの、胸を打つ告白〉

観客は幸福な再出発を想像した。

けれど茉白だけが知っていた。

あの夜は恋の第一幕ではない。

十五年続いた物語が、別の俳優へ役を渡さず、きちんと幕を閉じた最後の公演だった。