シチューの弱火

奏路は、娘の里桜が吹奏楽部から帰る時刻を、台所の音で測っていた。玉ねぎが透き通るころ校門を出る。牛乳を注ぐころ坂を下りる。シチューがふつりと一度だけ息をすると、角の薬局の前まで来ている。

もちろん、毎日そうなるわけではない。パート練習が長引く日も、友達と立ち話をする日もある。それでも奏路は、時計より鍋を信じた。針は待つ者を急かすが、鍋は火を弱めれば待ってくれる。

その日は七時を過ぎても、自転車のブレーキ音がしなかった。メッセージには、短く「片づけ」とある。奏路は人参を一つすくい、まだ硬いと言って鍋へ戻した。本当はちょうどよかった。

食卓には二枚の皿と、里桜が朝置いていった譜面がある。端に鉛筆で、息をたっぷり、と書かれていた。奏路はその言葉を眺め、鍋の蓋を少しずらす。白い湯気が細く上がり、曇った窓に触れて消えた。

門扉が鳴ったのは、人参の角が崩れ始めたころだった。里桜は頬を冷たくして入り、手洗いの前に台所を覗いた。

「今日、シチュー?」

「匂いで分かるだろ」

「外の道までしてた」

奏路は皿によそい、最後に胡椒を挽いた。里桜は鞄を椅子へ置くと、冷えた指を皿の縁に近づけた。食べる前から、その熱を惜しむようだった。

遅くなった理由を話す娘の声には、まだ金管の響きが少し残っている。奏路は相槌を打ちながら、柔らかくなりすぎた人参を食べた。待った分だけ甘い、とは口にしなかった。窓の曇りの向こうで、冬の坂道が静かに冷えていた。

里桜は食後、ケースから楽器を出さず、指だけで今日の運指を食卓に描いた。目に見えない音階が、塩の瓶とパン籠の間を上っていく。奏路は皿を洗いながら、その指が止まるたび蛇口を細くした。やがて娘が鼻歌で一小節だけ吹く真似をする。朝にはうまく出なかった音だという。奏路には違いが分からなかったが、鍋に残ったシチューを容器へ移しながら、「昨日よりいい」と答えた。白い湯気の向こうで、里桜の頬が少し緩んだ。