タヌキの釜飯、つり銭三十円

 東雲真弓は、引っ越して一か月、まだ隣人の顔を覚えていなかった。

 在宅勤務なので一日中部屋にいて、夕方になると商店街の総菜店「ぽん腹」へ行く。店主はタヌキの鍋丸。丸い眼鏡をかけ、釜飯の蓋を開けるたび、自分の腹まで湯気で曇らせる。

「茸釜飯、小さい方を」

「今日は栗も入ってるよ」

「では、それで」

 人間の店員が会計をすると、真弓の財布には十円玉が二枚しかなかった。三十円足りない。

「すみません、やめます」

 返そうとした包みを、鍋丸が前足で押し戻した。

「三十円は次でいい」

「そういうの、困ります」

「利息を取るから」

 真弓は身構えた。

「葱を刻んでもらう」

 店の奥には、小さな調理台があった。真弓が包丁を持つと、鍋丸は人間の店員と一緒に、余った油揚げを甘辛く煮始めた。

「私は料理、得意じゃありません」

「葱は逃げない。細さが違っても、鍋の中で仲直りする」

 真弓が刻むたび、青い香りが立った。三十円分だけのつもりが、鍋丸は「もう少し」「そこまで来たら全部」と言い、結局一本を使い切った。

 閉店間際、近所の豆腐屋の女性と、自転車店の老人が顔を出した。

「今夜は賄いある?」

「新入りが葱を切った」

 鍋丸が言うので、真弓は慌てた。

「客です」

「三十円の債務者だ」

 二人が笑い、狭いカウンターへ椅子を寄せた。

 釜の底には、売り物にならない少し焦げたごはんが残っていた。鍋丸が油揚げと葱をのせ、熱い出汁をかける。栗の甘さ、醤油の焦げ、葱の青さが湯気に混じった。

「一人分を買いに来たのに」

 真弓が言うと、豆腐屋の女性が答えた。

「ここ、小さい釜ほど人数が増えるのよ」

 翌日、真弓は三十円を握って店へ行った。

「返します」

「利息がまだだ」

「昨日、葱一本切りました」

「今日は生姜を頼みたい」

 また調理台へ通され、真弓は苦笑した。

 それから仕事を終えると、時々ぽん腹の奥で手を動かすようになった。隣人の名前も、少しずつ覚えた。

 冬の夜、釜の蓋が開くたび、木の香りを含んだ白い湯気が上がる。三十円はとっくに返したのに、鍋丸は今も「利息が残っている」と言う。真弓はそれを否定せず、刻みたての生姜が指へ残す温かな匂いを、家まで持ち帰った。