チョークの雨が止むころ
丹羽梨紗が教室へ戻ったとき、黒板はもう文字で埋まっていた。
「三年間ありがとう」「絶対また会おう」「六組最高」
同じ言葉が色を変え、向きを変え、隙間を奪い合っている。窓際では写真を撮る声が重なり、床には折れたチョークが散っていた。
砥上恭介だけが黒板消しを持って、教卓の横に立っていた。
「消すの?」
梨紗が聞くと、恭介は首を振った。
「粉、落としてるだけ」
彼は黒板消しを窓の外ではたいた。白い煙が春の日差しにほどけ、校庭へ流れていく。梨紗はその横顔を見て、一年の六月、初めてノートを借りた日も彼が同じ窓際にいたことを思い出した。雨で濡れたページを、恭介はドライヤーで乾かしてから貸してくれた。
担任は「掃除は明日でいい」と言い残し、卒業証書の筒を抱えて職員室へ消えた。いつもなら一文字でも落書きすれば注意した人だ。許された黒板を前にすると、みんな急に書くことを失い、ありふれた言葉だけが増えていった。
梨紗は空いている場所を探した。右上に、親指ほどの黒が残っている。背伸びをして、黄色いチョークで小さく書いた。
〈砥上へ ノート、毎回ありがとう〉
恭介は気づかないふりをしていた。梨紗は三年間、欠席した日の板書を彼に借りた。返すたびに飴を一つ挟み、彼は何も言わず次のページに天気の絵を描いた。
「それだけ?」
背中越しに言われ、梨紗は振り返った。
「それだけって?」
「飴、十八個分にしては短い」
恭介は青いチョークを取り、梨紗の文の下へ書き足した。
〈丹羽へ 十九個目は、次に会う約束で〉
周りが一斉に冷やかし、梨紗は消そうとして黒板消しを奪った。けれど恭介がその手首をつかみ、二人の間で白い粉が舞った。
結局、文字は消えなかった。
翌朝には清掃員が全部消してしまう。それでもあのときだけは、黒板の端に未来が一行ぶん残っていた。
梨紗は卒業証書の筒から細いリボンを抜き、十九個目の飴を結んで恭介へ渡した。包み紙には油性ペンで、四月最初の日曜日と駅前の時計台の絵を描いた。恭介はそれを制服の内ポケットへしまい、青いチョークで待ち合わせ時刻を小さく追記した。
その時刻だけは、誰にも冷やかされないほど小さかった。けれど梨紗には、教室中のどの文字よりはっきり読めた。