バターが消える前に
益子統真の下書き欄には、二千三百四十六文字の言い訳が入っていた。
昨夜、同じ会社で働く恋人から届いた別れのメッセージに返すための文章だった。最初の一行は「傷つけたことは謝る。でも、あの日は事情があって」で始まる。
統真は文章を消せないまま、「汐見」のカウンターに座った。火曜の遅い時間で、客は彼一人だった。
「ハイボール一杯。食べるものは任せます」
店主は殻付きの帆立を鉄板へ置いた。貝柱の縁が白く縮み、バターが黄色い泡になって走る。醤油を落とすと、じゅわっと鋭い音が立ち、甘い香りの奥から海の匂いが上がった。
恋人は、統真が会議で彼女の失敗をかばわなかったことを責めたのではない。帰宅後に「俺にも立場がある」と説明し続けたことに疲れたのだと言った。
「謝るときまで、私より自分を守るんだね」
その一文に反論したくて、統真は事情を時系列に並べた。上司の視線、部署間の力関係、あそこで口を挟めば二人の交際まで疑われた可能性。どれも嘘ではない。嘘ではないから、二千文字を超えた。
昼休みには、同僚へ見られないよう階段で文章を読み返した。誤字を直すたび、自分が正しいことだけが磨かれていった。彼女が何に傷ついたのかは、一行目から少しも増えていなかった。
店主が鉄板を火から外した。
「もう下ろすのか」と統真が聞くと、店主は殻の中を指した。
「火から離しても、しばらく焼ける」
バターはまだ小さく泡立っている。
統真は下書きを一番上まで戻した。「傷つけたことは謝る」の後ろにある「でも」から先を全部消した。残ったのは三行だった。今夜は送らない。明日、彼女のロッカーへ借りたカーディガンを返し、その三行を紙に書いて添える。返事を求める言葉は入れない。
同じ職場だから、木曜の定例会議では顔を合わせる。気まずさも、未練も、席替えでは消えない。彼女が別の誰かと笑う日も来る。
帆立を口へ入れると、外側は締まり、中心には柔らかな熱が残っていた。醤油の焦げた塩気のあとで、遅れて甘さがほどけた。