バターの匂いの三毛猫

 穂積依澄の働くパン屋「麦帽子」には、店長の三毛猫ピケがいる。

 客席へは出ず、二階の休憩室で昼寝をする猫だったが、ある朝、納品口の扉が少し開いていた。気づいたときには、赤い首輪だけが階段に落ちていた。

 開店前の店内に、いつもの鳴き声がない。

 依澄たちは近所へ手分けして走った。向かいの花屋は鉢植えの陰を探し、新聞配達員は裏通りを一周した。毎朝食パンを買う保育園の先生は、散歩に出る職員へ写真を送ってくれた。

「ピケは何が好き?」

 八百屋の主人に聞かれ、依澄は考えた。

「焼きたてのクロワッサンの匂い。でも食べさせたことはありません」

「匂いだけなら、町じゅうへ流せるね」

 店長は休業札を出す代わりに、いつもどおりオーブンへ生地を入れた。

 開店時刻になると、バターの甘い香りが通りへ広がった。近所の人たちは店の前へ集まり、買い物をしながら捜索の報告を交換する。誰かが電柱へ貼った紙は雨で剥がれ、文具店の学生が透明な袋へ入れ直した。

 昼前、裏の古い映画館から連絡があった。

「換気口のそばで猫の声がする」

 映画館は閉館して久しく、入口の鍵は商店会長が預かっていた。皆で中へ入ると、埃っぽいロビーの奥から、かすかな鈴の音がした。

 ピケは売店跡の棚へ入り込み、出られなくなっていた。依澄が名前を呼ぶと、三毛の顔が紙コップの箱の間から現れた。

 抱き上げたピケは、怖かったというより腹が減った顔をしていた。店長の胸へ前足を置き、短く鳴く。

「勝手に映画を見に行ったのか」

 店長が言うと、皆が笑った。

 パン屋へ戻ると、焼き上がったクロワッサンが少し冷めていた。

 店長は捜してくれた人へ一つずつ配り、ピケには猫用のごはんを出した。店先のベンチで、花屋も新聞配達員も保育士も、層のほどける音を立ててパンを食べる。

 映画館の管理をどうするか、空き店舗で週末市を開けないか、そんな話まで始まった。

 ピケは二階の窓辺に戻り、下の賑わいを見下ろしている。

 依澄が焼きたての天板を運ぶと、猫の鼻がひくりと動いた。

「もう匂いだけにしてね」

 夕方の通りには、バターと珈琲の香りが長く残った。閉じた映画館の扉にも、小さな猫の捜索をきっかけに、新しい予定表が貼られていた。