パン屋の最後のスタンプ

仕事を辞めた翌朝、私は高校まで歩いていた商店街を通った。シャッターの多い通りで、ひときわ色褪せた赤い庇が目に入る。毎朝寄ったパン屋は三年前に閉店し、ガラスにはテナント募集の紙が貼られていた。

財布の奥から、折れ曲がったスタンプカードを取り出す。丸い食パンの判が九つ。あと一つで好きなパンがもらえた。

高校三年の冬、私は東京の製菓学校へ行くと嘘をついていた。本当は家計を考えて就職を決めていたのに、夢を語る千弦の前でだけ、諦めた自分を見せたくなかった。彼女は毎朝、この店でクリームパンを二つ買い、片方を私の鞄へ押し込んだ。

卒業前、嘘がばれた。進路票を見た千弦は責めず、十個目の空欄を指で叩いた。

「帰ってきた日に押そう。夢が変わってても、なくなってても」

私は腹が立った。帰ってくることを前提にされた気がしたからだ。スタンプカードを受け取ったまま、卒業式のあと彼女を避け、町を出た。結局、食品会社に勤めて営業を続けた。菓子を作ることは、休日にさえしなくなった。

閉じた店の前でカードを撫でると、ガラスの内側に新しい紙があることに気づいた。来月、焼き菓子と花の店が開くらしい。店主の名前は千弦ではない。それでも、赤い庇の下にまた甘い匂いが戻るのだと思うと、胸の奥の固いものが少しほどけた。

私はコンビニで赤いスタンプ台を買った。歩道脇のベンチに座り、最後の丸へ自分で判を押す。きれいな食パン型にはならず、指先まで赤く汚れた。

夢を叶えた印ではない。諦めなかった証明でもない。自分で終わりを決め、次の空白を作るための印だ。

カードの裏に、明日から借りる小さな共同厨房の住所を書いた。いきなり店は持てない。週末に焼き菓子を売るだけだ。それでも、会社を辞めた理由を「失敗」と呼ぶのはやめようと思った。

カードの日付欄には、千弦と通った朝が飛び飛びに残っている。空白は失った日ではなく、これから別の味で埋められる余白に見えた。

赤い庇を背に歩き出す。商店街の出口で、まだ存在しない焼き菓子の匂いがした気がして、私は汚れた指をそっと握った。