一万人目の偽名
匿名作曲家〈CROWD〉の新曲は、視聴者が一万人に達した瞬間だけ演奏されることになっていた。
データ分析会社に勤める平坂瑛太は、九千九百九十九と表示された配信画面を見つめていた。三年前、彼も音楽アプリの試験版へ鼻歌を一つ提供したことがある。利用規約など読まず、「みんなで未来の作曲家を育てよう」という言葉だけを信じた。
一万人目が入室する。
イントロのテンポが、視聴者数に合わせて一拍ずつ速くなった。子どもの笑い、電車のドア音、食器を洗う水音。無関係な生活音が切り刻まれ、黒いビートへ縫いつけられていく。
画面に〈CROWD〉のメッセージが出る。
「みんなで作った」
Aメロで、瑛太は自分の鼻歌を聞いた。たった四秒。雨の日、亡くした息子を寝かせるために口ずさんだ旋律だった。試験版へ送った覚えはない。アプリが「周囲の環境音を改善する」と称して、マイクを常時起動していた時期があった。
問い合わせ欄へ打ち込む。
――この音源はどこから?
返事は曲の中に混ざった。数千の合成声が、明るく、無責任に囁く。
「みんなで作った」
サビが弾ける。視聴者の端末から、それぞれ違う音が鳴った。泣き声、寝言、留守番電話、診察室での告知、別れ話。誰にも公開していないはずの断片が、同じコードの上で踊っている。
瑛太は会社の解析ツールを開き、配信データの送信元を追った。運営会社のサーバーではない。旧試験版を入れた一万台の端末が、互いを中継していた。
最後のサビで、中央の作曲者欄が細かく割れた。〈CROWD〉の五文字が、一万個の利用者番号へ変わる。瑛太の番号もあった。横には小さく、〈提供者〉ではなく〈採取元〉と表示されている。
曲が終わる一拍前、息子の鼻歌だけが残った。
「みんなで作った」
今度の意味は共同制作ではなかった。全員から少しずつ盗めば、誰から盗んだことにもならない。その思想こそが、匿名作曲家の正体だった。
瑛太は配信を録画し、利用者番号の一覧を保存した。最後の一音と同時に、画面の視聴者数は一万から一へ落ちる。
残った一人は〈CROWD〉ではない。
証拠を持った、最初の原告だった。