一人入居のはずでした

 彼とこの部屋を内見したとき、不動産屋は玄関で言った。

「以前、女性が浴室で亡くなっています。発見が遅れたため、事故物件として告知しています」

 彼は気にせず契約書へ署名した。

「入居者はお一人ですね」

「はい」

 私が隣にいるのに、彼は訂正しなかった。

 まだ喧嘩を引きずっているのだと思った。

 引っ越しの日、彼が運び込んだのは一人分の布団、食器、歯ブラシだけだった。私の箱はどこ、と尋ねても返事をしない。肩を叩こうとすると、指先が服をすり抜けた。

 驚いているうちに、彼は浴室へ入った。

 床を外し、排水口の奥を針金で探っている。

「何をしてるの」

 何度聞いても無視された。

 夜、彼は誰かと電話をした。

「大丈夫。事故物件だから家賃も安いし、警察ももう来ない」

 女の声が漏れた。

『本当に、あの部屋へ戻ったの?』

「指輪だけ見つかってない。売れば引っ越し代になる」

 胸の奥が冷たくなった。

 私は左手を見た。薬指だけ、皮膚が紫色にへこんでいる。

 浴室の鏡には彼しか映っていなかった。

 けれど曇ったガラスに、爪で引っかいた跡が浮かんだ。

〈たすけて〉

〈しずめられる〉

〈このひとに〉

 私の字だった。

 記憶が戻った。

 半年前、私は彼の借金を知り、別れを告げた。彼は泣いて謝り、最後に風呂を沸かしてくれた。湯船へ入った私の肩を背後から押さえ、顔を湯の中へ沈めた。

 目を開けるたび、水面の向こうで彼が時計を見ていた。

 警察には自殺と説明したのだろう。

 発見までの日数が長く、証拠も流れた。この部屋だけが事故物件になり、彼は何事もなかったように逃げた。

 彼は排水口から小さな指輪を取り出した。

「あった」

 電話の女へ写真を送る。

 その指輪は、私の母がくれたものだった。

 彼が浴室を出ようとしたとき、扉が勝手に閉まった。

「誰かいるのか」

 初めて、彼が私へ向かって話しかけた。

 私は浴槽の蛇口をひねった。

 湯がたまり始める。

「一人入居だと言ったでしょう」

 そう答えると、彼の背後の鏡に、ようやく私の顔が映った。

 彼は扉を叩いた。

 私は半年前と同じ位置から、時計を見ていた。