一人分の更新料
樫村怜未の口座には、二つの振込先が登録されていた。
一つは今の部屋の管理会社。更新料は九万八千円。もう一つは修司が見つけた引っ越し業者。予約金は一万円だった。
「ほとんど俺のところにいるんだし、更新する意味なくない?」
修司の提案は合理的だった。彼の部屋は駅に近く、浴室も広い。怜未のワンルームは古く、冬は窓際から冷気が入る。九万八千円を払うくらいなら、その金で二人用の冷蔵庫を買える。
けれど、修司が未来を説明するとき、出てくるのは節約できる家賃と短くなる移動時間ばかりだった。怜未がどこで眠りたいか、どの本を持っていきたいか、喧嘩した夜にどうするかは、一度も話題にならなかった。
二十九歳になった友人たちは、住まいを広くしたり、誰かと暮らし始めたりしている。怜未だけが狭い部屋に更新料を払うのは、進めない人の選択に見えた。
スマートフォンに修司から二件届いた。
〈引っ越し屋、今日まで仮押さえ〉
〈段ボールは俺がもらってくるよ〉
優しさの形をしているから、断るのが難しい。
怜未は振込画面を開いた。九万八千円の数字を見て、一度目を閉じた。これは自由の値段ではない。ただの更新料だ。払ったから強くなれるわけでも、払わなかったから愛が深いわけでもない。
それでも今、怜未が選びたいのは、一人分の住所だった。
管理会社への振込を確定し、明細を保存する。それから修司へ打った。
〈今回は住まない。あなたとは続けたい。でも、同棲しないなら続かないと言われても、その結果は引き受ける〉
送信後、予約金の振込先を削除した。
振込を終えた部屋は、急に立派になったわけではない。蛇口は相変わらず固く、窓の隙間には古いスポンジが挟まっている。怜未はシーツを洗い、長く留守にしていた床へ掃除機をかけた。残る選択には、残った場所をもう一度暮らせる状態にする責任があった。
九万八千円で買ったのは正解ではない。あとで寂しくなり、後悔する夜もあるだろう。怜未はその夜の分まで、自分の名前で支払った。