一拍ぶんの心臓

真柴琴葉の指には、一本ずつ演奏補助AIが入っていた。事故で砕けた骨を置き換えたあと、内耳、脊髄、心拍調整器まで更新した。舞台に立てば、客席の呼吸を読み、最適な強弱と間を自動で選ぶ。

琴葉の演奏は「人類史上もっとも正確」と評された。音を外さず、緊張せず、アンコールの曲順まで観客の涙量から決めた。彼女の演奏データは音楽学校の教材になり、若い奏者は「真柴式の悲しみ」「真柴式の歓喜」を再現した。琴葉自身だけが、拍手を聞いて何を感じればよいのか分からなくなった。

ただ、昔の恩師だけは褒めなかった。

「あなたの音は、転ばなくなった代わりに、どこへも行かなくなったね」

琴葉は意味を尋ねなかった。質問すれば、回答候補が視界に並ぶからだ。

その恩師が亡くなり、追悼演奏を頼まれた。補助AIは、故人の好みと参列者の年齢から、成功率九八パーセントの曲を提示した。琴葉は承認しかけ、楽譜の端に残った古い鉛筆書きを見つけた。

――ここは一拍、待ちなさい。怖くても。

学生だった琴葉は、その一拍をいつも急いだ。間違えるのが怖かったからだ。今の身体には、怖さそのものがない。

本番、琴葉は演奏補助を切った。指がわずかに遅れ、左手が一音濁った。客席が息をのむ。警告表示が視界を埋めた。

それでも彼女は、鉛筆書きの場所で手を止めた。

一拍。

機械の心拍調整器は一定のリズムを刻んだが、その奥で、失ったと思っていた何かが待っていた。恩師に褒められたかった少女、失敗を恐れていた自分、もう聞けない声。次の音は震えた。

終演後、評価は過去最低だった。録音会社は契約更新を保留し、評論家は「精度の崩壊」と書いた。

琴葉は翌春、小さな教室を開いた。生徒が間違えるたび、訂正より先に尋ねた。

「その音の前で、何を怖がった?」

彼女自身も毎日、一拍ずつ待つ練習をした。教室の壁には、恩師が使っていた古いメトロノームを置いた。針が左右へ揺れるたび、機械に数えさせず、自分の胸で次の音を決めた。完璧な演奏を失って初めて、琴葉の音楽には、彼女が帰ってきた。