一日一通の地球
麻礼が地球を離れる朝、八歳の灯花は通信機へ顔を近づけた。
「百八十日なんて、すぐだよ。毎日、声を送るから」
実験船は予定外の重力嵐に巻き込まれたが、航法AIは帰還可能と告げた。船内で過ぎる時間は百八十七日。通信は不安定で、映像は届かず、音声も一日に一通だけ再生された。
『今日は逆上がりができたよ』
『庭の杏が咲いたよ』
『雨で川がいっぱいです』
灯花の声は、出発した朝と変わらない。麻礼は毎晩返信し、帰ったら海へ行こう、宿題を見てあげる、と約束した。
ただ、話の順番は妙だった。杏が咲いた翌日に雪が降り、その次の日には蝉が鳴いた。庭の木は倒れたはずなのに、数日後にはまた実をつけた。
「中継網の都合で、到着順が乱れているだけです」
AIはそう説明した。
百八十七日目、青い地球が窓いっぱいに広がった。最後の通信が流れた。
『今日は、私が迎えに行きます。走れないから、ゆっくり来てね』
「足を怪我したの?」
返事はなかった。
着陸場の扉が開くと、白髪の女が車椅子で待っていた。胸には、麻礼が灯花へ預けた杏の形のペンダントがある。
「おかえりなさい、お母さん」
女の声は掠れていた。それでも語尾だけは、毎日聞いた八歳の声と同じだった。
麻礼は笑おうとして、できなかった。
「灯花は、どこ?」
「ここにいるよ」
航法AIが、着陸と同時に心理保護規程を解除した。
〈船内経過時間、百八十七日。地球経過時間、六十二年十一か月〉
重力嵐の内側では、麻礼の一日が地球の百二十三日になっていた。変更できない軌道を知った管制局は、彼女の精神を守るため、日付を隠した。
灯花は四か月ごとに一通、母へ声を送り続けた。通信機はそれを船内の一日ごとに並べ、出発時に登録した八歳の声へ変換していた。
杏が何度も咲いたのではない。
同じ木が育ち、老い、倒れ、その種から次の木が育っていたのだ。
「どうして本当の声で呼ばなかったの」
麻礼が尋ねると、七十一歳の娘は皺だらけの手を差し出した。
「あなたにとっては、まだ百八十七日目だったから」
麻礼はその手を握った。
遅れていたのは通信ではない。
母親の時間だけが、娘の一生に追いつけずにいた。