一晩だけ代わって
御厨紬生の家では、冷蔵庫に「おじいちゃん介護当番表」が貼ってある。
九十二歳の鴻太郎は、一人では起き上がれない。夜中に何度も水を欲しがるので、家族が一人ずつ隣の布団で眠る。
最初の当番は叔父だった。
翌朝、叔父はいなかった。
靴も鞄も残っていたが、父は「介護に疲れて旅行へ行った」と言った。
代わりに、鴻太郎が一人で上半身を起こしていた。細かった腕には、叔父と同じ錨の刺青が浮かんでいる。
「世話してもらうと、元気が移るんだ」
鴻太郎は叔父の声で笑った。
次は叔母の番だった。
朝になると叔母の姿はなく、鴻太郎は自分で箸を使えるようになった。左目の下には、叔母と同じほくろがあった。
母が当番をした翌朝、台所には鴻太郎が立っていた。
背中はまっすぐになり、母の花柄のエプロンを着けている。母の結婚指輪が、太い薬指にはまり込んでいた。
「お母さんは?」
「少し休んでいるよ」
鴻太郎の口から、母の声が答えた。
父は何も言わず、当番表から母の名前を消した。
居間の家族写真からも母は消えていた。代わりに鴻太郎が、母の服を着て幼い紬生を抱いている。叔父と叔母の姿もなく、空いた場所には若返った鴻太郎が立っていた。
その夜、父が鴻太郎の部屋へ入る前に、紬生へ言った。
「明日の朝、お父さんがいなくても騒ぐな。おじいちゃんを一人にしたら、みんなの介護が無駄になる」
翌朝、鴻太郎は父の背広を着て新聞を読んでいた。
見た目はもう五十歳ほどで、老眼鏡も杖も必要としていない。
家の中には、紬生と鴻太郎しかいなくなった。
学校から帰ると、冷蔵庫の当番表が新しくなっていた。
〈日曜日 紬生〉
「僕は子どもだから、介護なんてできないよ」
鴻太郎は若い脚で立ち上がり、紬生の頭を撫でた。
その手は父の大きさで、指輪は母のもの、爪の形は叔母と同じだった。
「何もしなくていい。一晩、隣で寝るだけだ」
叔父、叔母、母、父の声が、喉の奥で重なった。
「怖くないよ。みんな、まだここにいるから」
鴻太郎は胸を軽く叩いた。
中から四人分の手が、叩き返した。