一本あとのエレベーター
璃子は、退勤時刻になると誰より早く十四階のエレベーター前に立った。人と乗り合わせないよう、会議の終了音より少し前に資料を閉じる。経理部の雑談は、参加すれば疲れ、断れば角が立つ。だから、気づかれない速度で帰るのが一番だった。
同じ部署の小暮澄江は、いつも一本遅いエレベーターを待つ人だった。五十代に見えるが、年齢も家族も誰も知らない。必要な数字だけを短く伝え、電話でも「はい」と「承知しました」しか言わない。
月末の木曜、璃子が閉まりかけた扉に滑り込むと、澄江も珍しく乗ってきた。二人きりの箱が下り始める。澄江は十一階のボタンを押した。
「そこ、総務ですよ」
澄江はポケットから小さな紙を出した。
『急いでいない日に、知らない階で一度降りる』
「何のために?」
澄江は肩をすくめ、十一階で降りた。扉の向こうには、総務ではなく社員用の小さなラウンジがあった。改装で部署が移ったことを、璃子は知らなかった。窓際に古いソファが並び、夕焼けがビルの隙間を赤くしている。
ラウンジの壁には、部署の名前も利用規則も貼られていなかった。窓辺に誰かが置いた小さなサボテンと、読みかけの新聞があるだけだ。璃子は同じ建物で四年働きながら、仕事に関係しない場所を一つも知らなかった。毎日最短で帰ることが、自分を守る唯一の方法になっていたのだ。
澄江は自販機で水を買い、窓を見ただけで、次のエレベーターに乗った。璃子もついていくつもりだったが、扉が閉まる直前、ラウンジの奥から笑い声がした。経理部の若手三人が、コンビニの菓子を広げていた。
「あ、璃子さん。こんなところ来るんですね」
逃げ道を探す癖で、視線が非常口へ向く。明日の締め、家の洗濯物、返信していない連絡。帰る理由はいくつもあった。
それでも、窓の赤はあと数分で消えそうだった。
「初めて来たの」
璃子はそう答えた。ちょうど到着した下りのエレベーターが開く。いつもなら一歩で乗れる距離だった。
彼女は扉を見送り、空いているソファの端に鞄を置いた。