一杯を沸かしただけなのに
辺境砦では、水より腹下しのほうが兵を倒していた。
「井戸に毒はない。神官も確認した」
隊長グレドは、元給食調理員の澪を倉庫番に追いやった。だが三百人の守備兵のうち、朝礼に立てたのは百八十二人。敵軍はまだ山の向こうなのに、便所の列だけが城壁まで延びていた。
澪が使った現代知識は一つ。飲み水を沸騰させる。それだけだった。
大鍋を中庭に並べ、汲んだ水をぐらぐらと沸かす。冷ました水だけを青い樽へ移し、兵には青い樽以外から飲ませない。香草も聖水も入れない。透明な水が、透明なまま湯気を上げるだけだ。
最初の樽を運ぶと、兵たちは「湯冷ましはまずい」と顔をしかめた。澪は砦の旗を青い樽へ結び、どの持ち場でも見間違えないようにした。炊事兵は交代で火を守り、夕刻までに樽四十本を満たした。必要だったのは、魔法使いではなく鍋番六人だった。
「薪の無駄だ!」
副官が怒鳴ったが、澪は腹を押さえている兵に生水を渡さなかった。代わりに冷めた一杯を飲ませた。
翌朝、便所へ走った兵は百十八人から五十六人へ減った。二日目は十九人。三日目、朝礼場には二百八十九人が並んだ。空いている十一人も、負傷者と夜警明けだけだった。
グレドは疑い深く、澪の鍋と旧来の井戸水を別々の銀杯へ注いだ。色も匂いも同じ。神官の光も同じ青に輝く。
そこで澪は、井戸水を一口飲もうとした副官の手から杯を取り上げ、もう一度鍋へ戻した。
「見えないから厄介なんです」
講義はそれだけだった。
午後、山の尾根に敵の旗が現れた。だが城壁へ駆け上がった守備兵の足音は三日前の倍に響いた。弓兵百二十人が一斉に弦を引き、敵の斥候は砦の健在を見て引き返す。
隊長は中庭の大鍋を見た。使った薪は十二束。失わずに済んだ兵は百人以上。
「井戸番では足りんな」
グレドは砦の鍵束から、食糧庫と炊事場と全井戸の鍵を外した。それを澪の前へ置く。
「今日から兵站長だ。全ての飲み水を、お前の一杯と同じにしろ」
号令が飛ぶより先に、兵たちは空の樽を抱えて澪の鍋へ走った。