七号室は後継者を待たない

 山あいの旅館を閉める最後の週末、娘は十年ぶりに手伝いへ戻った。

 母は何も言わず、昔と同じ紺の前掛けを渡した。

「まだ取ってたの」

「捨てる理由がなかったから」

 娘は高校卒業と同時に町を出た。客室の布団を敷き、朝四時に風呂を洗い、盆暮れにも休めない暮らしへ戻りたくなかった。

 母は一度だけ言った。

「この宿は、あなたの代で終わるのね」

 その言葉が、十年間、娘の背中に刺さっていた。

 最後の夜、季節外れの雪で道路が閉ざされ、満室の客が帰れなくなった。娘は台所を手伝い、余った米でおにぎりを握り、子ども客へ毛布を運んだ。

「体が覚えてるじゃない」

 母が言った。

「覚えてることと、戻りたいことは別」

「そうね」

 あまりにあっさり認められ、娘は腹が立った。

「ずっと、継がなかった私を恨んでたでしょう」

 母は帳場の古い宿帳を開いた。最終ページに、閉館の日付が書かれている。

 その下に、小さく一文。

〈娘は自分の仕事を続ける。後継者なし〉

「いつ書いたの」

「五年前。あなたが海の研究所で働いている記事を見た日」

「じゃあ、どうして言わなかったの」

「言えば、許されたと思うでしょう。私は寂しかったし、腹も立っていた。それも本当だから」

 娘は宿帳を閉じた。

「私も、この宿が嫌いだった。でも、なくなると聞いたら帰ってきた」

「それも本当でいい」

 翌朝、客を送り出し、最後に玄関の灯りを消した。娘は布団のない七号室へ座った。静けさは寂しかったが、責める声には聞こえなかった。

 母は鍵束から〈七号室〉の札を外し、娘へ渡した。七号室は、幼い娘が熱を出した夜、客室が足りず家族三人で眠った部屋だった。

「形見?」

「家の鍵じゃない。ただの札」

「何に使うの」

「帰る場所が、商売でなくなってもあったことを思い出すため」

 旅館は売却され、改装後は研修施設になる。

 娘は継がなかった。

 母も、継がせなかったことにした。

 それでも研究所の机には、七号室の札が置かれている。

 家業が終わっても、家族まで廃業する必要はなかった。