七点ぶんの別人
安積千織は、四十六歳で花屋を畳む日に過去修正を申し込んだ。高校入試の数学。最後の設問に正しい数字を書けば、合格点は七点上がり、奨学特進科へ行けたはずだった。貧しさも、母の失望も、全部そこから始まったと思っていた。
修正後、千織は手術室の前に立っていた。白衣の胸には「心臓外科部長」。端末には、彼女が執刀する難手術まで十二分と出ていた。
記憶だけは以前のままだった。過去を変えた本人は、改変前の意識を保つ。それが利用規約の最初に書かれていた。だが千織は、七点の先にある三十年を甘く見ていた。
看護AIは手順を投影した。指は不思議なほど正確に器具を選んだ。改変後の身体には訓練が刻まれているらしい。それでも、患者の胸を開く直前、千織は動けなくなった。花の茎なら、切りすぎても謝れる。心臓は違う。
彼女は手術を中止し、自分が時間改変者だと公表した。病院は混乱し、家には見知らぬ夫と、大学生の息子がいた。二人は千織の顔をしている別人を見つめるように泣いた。食卓には、彼女が毎年作ったという家族旅行のアルバムが二十冊並んでいた。夫は「君が必ず作ったスープ」を温めたが、千織には味の記憶がない。息子は、母に教わったという心臓の模型を持ってきた。知らない人生が、彼女より詳しく彼女を知っていた。
中止した手術は別の医師が成功させた。患者からは、「逃げずに止めてくれたことも医療だと思う」と短い手紙が届いた。
過去修正AIは提案した。改変前の記憶を消去し、外科医の人格へ統合すれば、すべて丸く収まる、と。
千織は拒んだ。七点を直すために、自分まで採点し直されたくなかった。
彼女は部長職を辞し、病院の玄関に小さな花売り台を出した。医師免許を持つ花屋は、退院する患者に、手入れの難しい鉢を勧めなかった。見知らぬ息子は最初、遠くから眺めていたが、ある日、母の日でもないのに一輪買った。
「前の母さんは、花の名前を知らなかった」
千織は花を包みながら答えた。
「今から覚えてもらっていい?」
七点で人生は変わった。だが人生は、答案のように一度で採点が終わるものではなかった。