七階の空室
夜勤明けまで二時間。緒方麻白は、翌週から別の会社で働くことをまだ現実だと思えていなかった。制服を返す日も、新しい社員証の写真も決まっているのに、手はいつものように予約一覧を上から追っていた。
最後に確認していたのは、今夜到着する一組の予約だった。システムは満室を避けるため、二階のバリアフリールームから七階のスイートへ自動で変更している。料金は同じ、眺めは良くなる。画面だけなら、親切なアップグレードだった。
だが客から届いた短いメッセージに、〈シャワーチェアを置けますか〉とある。予約者は母娘で、母は退院後初めての旅行だと備考に書いていた。七階の景色より、自分で浴室へ入り、夜に無理なく避難できることの方が、旅を楽しむための条件だった。
麻白は七階の客室図を開いた。浴室の入口には八センチの段差があり、ベッド脇の通路も狭い。災害時の避難用エレベーターからも遠く、車椅子の向きを変える余地もない。予約時に入力された〈車椅子利用〉は、要望欄の一番下へ折り畳まれ、自動変更の判定には使われていない。
「スイートなら喜ばれると思って」
割り当てを確認した後輩が言った。麻白は首を振った。
「あなたの気遣いが悪いんじゃない。眺めを上げることと、使える部屋にすることを同じにした仕組みが悪い」
麻白は二階の部屋を戻し、そこへ入る予定だった法人客には七階のスイートを案内した。到着前に客へ連絡し、シャワーチェアの高さとベッド周りの配置まで確認する。予約票には、設備条件を〈好み〉ではなく〈変更不可〉として表示する赤い欄を追加した。
支配人は処理を見届けてから、転職を惜しんだ。
「現場を知っている人が、予約システムの会社へ行って何をするの」
麻白も少し前まで、フロント経験を職歴の端だと思っていた。けれど画面の一行は、誰かの入浴や避難まで変えてしまう。現場でしか見えない段差がある。
休憩室で転職先の担当者へメールを開く。〈導入支援ではなく、仕様設計にも参加したい〉と送った条件に、了承の返信が来ていた。
麻白は今日の予約票を、入社後に検討したい仕様例として添付した。返信欄へ〈参加します〉と打ち、送信する。
七階の空室を埋める仕事から、二階を消さない仕組みを作る仕事へ移るために。