三センチの許可
閉店後の美容室で、娘は自分で切った髪を床へ落とした。
肩まであった黒髪は、右だけ顎に届かず、左には長い束が残っている。
「直して」
母は箒を持ったまま動かなかった。
「勝手に切るなって言ったでしょう」
「私の髪でしょ」
「明後日は高校の面接なのよ」
「だから切ったの。長い髪の、母さんが好きな娘で行きたくない」
鋏より鋭い言葉だった。
母は鏡の前へ座らせ、ケープを掛けた。
「どこまで?」
「耳が出るくらい」
「三センチ残せば、面接向きに整えられる」
「また母さんが決める」
娘が立とうとすると、母は鋏を台へ置いた。
「じゃあ、自分で決めて。私は切るだけにする」
鏡の中で二人は黙った。
娘は小さいころから、母の店の隅で宿題をした。発表会の日には巻いてもらい、卒業式には編んでもらった。髪に触れられることは、愛されることと同じだった。
いつからか、それが息苦しくなった。
前髪を伸ばしたいと言えば「目に悪い」。染めたいと言えば「傷む」。短くしたいと言えば「似合わない」。母の心配は、娘の顔をした檻になった。
「耳の上まで。襟足も短く」
娘が言うと、母は一度だけうなずいた。
鋏の音が静かな店内に続いた。
「どうして、長い髪にこだわったの」
娘が尋ねた。
「赤ちゃんのころ、なかなか髪が生えなくてね。やっと結べた日に、すごく嬉しかったから」
「それ、私の記憶じゃない」
「うん。私の記憶だった」
母の指が止まった。
「あなたの髪なのに、私が思い出を着せてた。ごめん」
最後の一束が落ちた。鏡の中に、耳を出した見慣れない自分がいた。
「変?」
「私が決めていいの?」
「感想は聞いてる」
「似合う。悔しいくらい」
娘は笑った。
面接の日、母は店の入口で娘の襟足を直そうと手を伸ばし、途中で止めた。
「触っていい?」
娘は少し考え、頭を差し出した。
「三秒だけ」
母は三センチにも満たない髪を、指先でそっと整えた。
それは許可を求めるには小さすぎることだった。
だからこそ娘には、母が自分を子どもではなく、一人の人間として見始めた合図に思えた。