三号室という牢獄
「空いているのは三号室だけです」
街道宿〈角鹿館〉の主人オルヴァは、予約札を並べ、羽根ペンの先を削り、泥だらけの冒険者には玄関で靴拭きを渡す。忙しくても声を荒らげないので、客からは「気の弱い帳場係」と思われていた。妙なのは、宿の案内図に三号室だけが載っていないことだった。尋ねてもオルヴァは「長期滞在のお客さま用です」と笑い、鍵にも誰一人触れさせない。
新人冒険者ティオは、その夜だけ帳場の隅で依頼書を書いていた。二階は満室、食堂も満席。そこへ扉を開けずに、黒い裂け目が壁から入ってきた。
裂け目の奥には歯があった。迷宮の階層を丸ごと食べる魔物、隙間喰いだ。人のいる部屋を順に飲み込もうと、廊下の影を膨らませる。最初の影が赤子の眠る部屋へ伸びたとき、ティオは剣を抜いた。刃は裂け目に触れる前から、先端だけ消えてしまった。
オルヴァは宿帳から顔も上げず、鍵棚の「三」と刻まれた真鍮鍵を取った。
「ご宿泊ですね」
鍵を空中で半回転させる。すると、存在しないはずの扉が裂け目の前に現れた。隙間喰いが歓喜して口を広げた瞬間、扉の方がそれを飲み込んだ。轟音も抵抗もない。ぱたん、と閉じた扉には「滞在中」の札だけが揺れていた。扉の奥で迷宮がいくつも砕ける音がしたが、オルヴァが札を裏返すと、それすら聞こえなくなった。
ティオは声を失った。空間封印は宮廷魔術師百人でも一刻しか保てない。だがオルヴァは鍵穴へ息を吹きかけ、宿帳に一行を書いただけだった。
――三号室。宿泊期限、世界の終わりまで。
「旦那、あなたはいったい……」
「インクをこぼしましたか?」
オルヴァは質問を遮り、壁に残った黒い筋を消しゴムでこすった。扉も歯形も魔力の残滓も、紙の汚れのように薄れて消える。最後に鍵を棚へ戻すと、二階から寝返りの音がした。客は誰一人起きていない。
翌朝、ティオは三号室の前を通った。そこには壁しかない。ただ壁の向こうから、遠い宇宙で何かが扉を引っかく音がした。
帳場へ戻ると、旅人が二人、部屋を求めていた。オルヴァは予約札を数え、昨夜と同じ穏やかな声で告げた。
「空いているのは三号室だけです」