三百六十五枚の領収書
弓削史帆が母・沙喜代の介護に通った五年間、弟の隼也は一度も夜を代わらなかった。
「姉貴は独身で身軽だろ」
そう言って、施設の保証金も、通院のタクシー代も、史帆の口座から出させた。母の通帳は「長男が管理する」と隼也が持ち帰ったが、残高を見せたことはない。
沙喜代が亡くれると、隼也は実家の鍵を替えた。史帆の着替えも介護用品も中に残したまま、不動産会社へ売却を依頼する。
「家は俺、預金も俺。姉貴は介護して家賃を浮かせたんだから十分だ」
史帆は反論せず、段ボール箱を一つ抱えて遺産分割の話し合いへ行った。箱には、母のために使った三百六十五枚の領収書と、日付入りの介護記録が入っていた。
隼也の代理人は鼻で笑った。
「家族の世話に時給は発生しませんよ」
史帆はもう一冊、銀行の取引履歴を出した。母の口座から毎月二十万円前後が、隼也のカードローン返済へ流れている。海外旅行、腕時計、車の頭金。母が寝たきりだった日に、遠方のATMで引き出された現金もあった。
「母は私に、通帳を取り戻してほしいと言っていました。だから亡くなる半年前、成年後見の申立てをしました」
選任された後見人の弁護士が入室した。調査の結果、隼也による無断出金は二千四百万円。母の隼也に対する返還請求権も、遺産に含まれるという。
隼也は机を叩いた。
「俺が相続すれば、俺が俺に返すだけだろ!」
「相続する前に、持ち出した分を遺産へ戻していただきます」
さらに、史帆が立て替えた介護費と母への貸付金は、領収書と契約書で千百万円と認められた。これは遺産分割より先に精算される。家と残預金、隼也への返還請求権を合算し、貸付金を差し引くと、隼也の法定相続分は一千七百五十万円だった。
無断出金二千四百万円をそこから相殺しても、六百五十万円足りない。
隼也の笑いが消えた。
弁護士が計算書の最下段を指した。
「あなたが受け取る遺産はゼロです。逆に、遺産管理口座へ六百五十万円を返還してください。史帆さんには、立替金と残る相続分が支払われます」