九階より昔
御代川比佐子は、梢ヶ丘ハイツの九階に一人で暮らしている。
娘の環とは、十一年前の口論を最後に会っていない。
ある夕方、買い物袋を提げてエレベーターに乗ると、表示板に「一九九九」と出た。九階のボタンを押しても消えない。
扉の向こうには、張り替える前の緑色の廊下があった。カレーの匂いがして、七歳の環がランドセルを鳴らしながら走ってくる。
「おばあちゃん、誰?」
比佐子は答えられず、「同じ階の人よ」とだけ言った。
幼い環はポケットの飴を欲しそうに見た。渡すと、扉が閉まった。
現在の九階へ戻ると、食器棚に見覚えのない絵が貼られていた。子どもの字で、〈えれべーたーのおばあちゃん〉と書かれている。
翌日は「二〇〇六」だった。
制服姿の環が玄関前で泣いていた。若い比佐子に「そんな成績では恥ずかしい」と言われた直後だ。比佐子は昔の自分を止められず、代わりに少女の隣へ座った。
「お母さんは、謝り方を知らないの」
「じゃあ、嫌いになっていい?」
「少しだけなら」
帰宅すると、娘から十一年ぶりに電話があった。
『昔、うちの階に変なおばあさんがいたよね。お母さんより、あの人の言葉のほうを覚えてる』
それからエレベーターは、毎日違う年へ比佐子を運んだ。
発熱した夜、運動会の朝、進学で揉めた冬。比佐子が過去の環を慰めるたび、現在の写真から若い比佐子の姿が薄くなった。代わりに、銀髪の女が娘の隣に立つようになった。
乗るのをやめようとした。
しかし階段は何度下りても九階へ戻り、玄関を開けてもエレベーターの中だった。
最後に表示されたのは「二〇一五」。
絶縁した夜だった。
若い比佐子が、「二度と帰ってこなくていい」と叫んでいる。成人した環が震える手で鞄を持ち上げた。
老いた比佐子は箱から出て、娘の前に立った。
「帰ってきていいのよ」
環には彼女しか見えていなかった。
「あなたは誰?」
「同じ階の人」
答えた瞬間、若い比佐子の姿が消えた。
部屋も写真も、娘の記憶から母親だけが抜け落ちた。
現在。
環は差出人のない鍵を受け取り、梢ヶ丘ハイツを訪れた。なぜか九階が懐かしい。エレベーターが開くと、銀髪の女が一人で立っていた。
「おかえり、環」
知らない人なのに、環の口から「ただいま」がこぼれた。
女が手を差し出す。
環が乗ると、扉が閉じた。
表示板には、環が生まれる前年が灯っていた。