予備ではない歯ブラシ
「予備は一本あれば十分だから」
真壁紗良の洗面台に置かれた青い歯ブラシを見て、梶谷昴は何度もそう言った。
二人で映画を見て終電を逃した夜、昴は紗良の部屋のソファで眠る。翌朝はその歯ブラシを使い、コンビニのコーヒーを二つ買って帰る。月に一度だった夜が、いつしか毎週になった。
それでも青い歯ブラシは《来客用》だった。昴はタオルも着替えも持ち込まず、紗良も合鍵を渡さない。友達以上の生活が始まりそうになるたび、二人は予備という言葉の後ろへ戻った。
紗良の転居が決まった日、昴はいつも通り段ボールを運びに来た。新しい部屋は今より広いが、駅が二つ遠くなる。終電を逃したからという理由では、もう簡単に来られない距離だった。
最後に洗面所を空にし、紗良は青い歯ブラシを透明な袋へ入れた。
「これ、返すね」
昴は受け取らず、しばらく袋を見ていた。
「捨てていいよ。予備だし」
軽い声が、空っぽの部屋へ響いた。紗良はうなずき、ごみ袋へ入れようとした。
その手首を昴がつかむ。
「やっぱり、持っていく」
彼は歯ブラシを取り、新居へ運ぶ箱の一番上に置いた。紗良が意味を尋ねる前に、もう一つ小さな紙袋を差し出す。
中には、緑色の新しい歯ブラシが一本。レシートには、昴の家の最寄り駅にある薬局の名が印字されていた。
「そっちは?」
「俺の洗面台に置くやつ」
告白はなかった。昴はスマホを開き、来月までの金曜夜に《紗良の家》、土曜の朝に《昴の家》と交互に予定を入れていく。どちらにも、終電時刻は書かれていない。
紗良は緑の歯ブラシを握ったまま、彼の手からスマホを取った。《紗良の家》を《紗良と昴》へ直し、最初の金曜を一時間早める。
「映画は?」
「見る」
「ソファは?」
「新しいの、買ったよ」
「一人用?」
紗良が尋ねると、昴は首を横に振り、箱を持って空いた手を差し出した。
紗良はその手を取る。引っ越し業者を追って廊下へ出ても、指はほどけなかった。
予備は一本で十分だった。
新しい二本は、互いの場所へ帰ってくる人のために置かれることになった。