二人分の乗車
二十八歳の紙屋敷湊生が「舟待ち」を入れたのは、弟の一周忌の夜だった。削除済みの追悼掲示板に、アプリの導入手順だけが残っていた。
――川向こうの者へ一問だけ送れる。古い《渡し舟問答》を通信儀礼に置き換えたもの。
固定投稿の警告は一つだった。
《最初の鐘が鳴ったら機内モードにし、三度目の鐘が鳴り終わるまで解除してはいけない》
湊生は弟とのトーク履歴を開いたまま儀式を始めた。画面に黒い川が流れ、送信欄へ「事故の日、なぜあの電車に乗った」と打つ。
一度目の鐘。機内モードをオン。
二度目の鐘。弟のアイコンが灰色から青へ変わった。
その瞬間、会社支給端末が鳴った。鉄道設備の保守員である湊生は当直だった。変電所で異常、応答がなければ現場班が動けない。私物端末にだけ図面があり、クラウドへ接続する必要があった。
湊生は二秒迷い、機内モードを解除した。一度だけだった。
三度目の鐘は途中で途切れた。
弟から返信が届く。
〈乗ったんじゃない〉
続きは来なかった。代わりに画面の川から、水を踏む音が一歩ずつ近づいた。アプリを閉じても、端末を電源オフにしても、濡れた靴底の音だけが枕元まで続いた。
緊急対応を終えたころ、部屋の床には玄関から机まで細い水の跡ができていた。弟が事故の日に履いていたスニーカーと同じ、右踵だけ減った足跡だった。電源を落とした私物端末のスピーカーからは、車内放送のような声が繰り返された。
「お連れさまを置いて、下車しないでください」
湊生は夜明けまで玄関を開けなかった。それでも足跡は外からではなく、机の下から始まっていた。
翌朝、湊生は始発で現場へ向かった。改札に交通系ICを触れると、赤いランプが点いた。
「もう一度、一人ずつお通りください」
駅員が不思議そうに端末を確認した。
「お客さま、昨日から同伴者一名が未精算になっています」
履歴には、午前一時二十二分の乗車記録があった。駅名は空欄。人数だけが二名になっている。
湊生のスマートフォンが震え、弟の未完の返信に一行が追加された。
〈兄ちゃんが、迎えに来た〉
改札機はもう一度、普段と同じ声で言った。
「二人での通過はできません」