二十七秒の借りもの
男女混合二百メートルリレーの直前、翠は保健室の丸椅子で泣いていた。
朝の予行で転び、右膝を三針縫った。包帯の白さだけが、やけに体育祭らしくなかった。
「透伍、お願い」
翠は青いヘアゴムを外し、僕の手首に巻いた。男女混合の部に急きょ出ることになった僕へ渡せるものが、それしかなかったのだと思う。僕の自己ベストは二十九秒台で、スパイクさえ持っていない。候補になった理由は、昼休みに教室へ戻るのが速かったから、という冗談みたいなものだった。
「私の二百、二十七秒だったから」
「速すぎる」
「借りるだけでいい。返さなくていいから」
何を言っているのか分からなかった。けれど招集係に呼ばれ、僕はそのまま校庭へ出た。
第四走者。前の三人がつないだバトンは、三位で僕の掌に飛び込んだ。最初のカーブで一人抜いた。向こう正面で呼吸が壊れた。青いゴムが手首に食い込み、そのたび、保健室の翠の声がした。
二十七秒。
あいつが毎朝、誰もいないトラックで削った時間。僕が教室の窓から見ているだけだった時間。雨の日には廊下を往復し、チャイムが鳴ると何事もなかったように席へ戻った。誰にも見せなかった積み重ねを、僕だけは偶然知っていた。
残り五十メートルで先頭に並んだ。脚がもつれ、視界が白くなった。放送が何か叫んでいる。ゴールの横、立入禁止のロープぎりぎりに、包帯の脚を引きずった翠がいた。
「返すな!」
僕は笑ってしまった。笑ったせいで息が漏れ、半歩だけ遅れた。
二位。記録、二十七秒四。
担任は「惜しかった」と肩を叩いた。クラスメイトは「実質優勝」と勝手なことを言った。僕は息を整えるより先に、翠のところへ行った。
青いゴムを外そうとすると、翠が手首を押さえた。
「返さなくていいって言った」
「でも二十七秒、借りられなかった」
「四だけ自分で足したんでしょ」
翠は泣き腫らした目で笑い、僕の拳に自分の拳を軽くぶつけた。
その秋から、僕は朝練に出るようになった。
手首の青はすぐ色褪せたが、二十七秒四だけは、ずっと僕の記録ではなかった。