二本目の雨傘

雨の木曜日、十四階の住人は傘を二本持って帰宅する。

一本は自分が使った濡れた傘。もう一本は一度も開いていない乾いた傘。エレベーターが十二階を過ぎたら、階数表示を見ずに乾いたほうを右手へ持ち替える。十三階で扉が開いても外を見てはいけない。柄を室内へ向けて傘を一本置き、閉ボタンを二度押す。

管理会社の入居案内にも、ゴミ出しの曜日と並んで書かれている。

雨谷がこの部屋へ移ったとき、傘はいつも二本だった。彼女は透明なビニール傘を嫌い、黄色い布傘ばかり買った。二人で帰る夜は、どちらが乾いた傘を置くかじゃんけんをした。

彼女が出ていってからも、雨谷は二本持った。

「一人暮らしなら一本でいいでしょう」

一階の管理人に言われたが、規則は世帯人数ではなく住人に適用される。雨谷は毎週、黄色い傘を十三階へ置いた。翌週には靴箱へ同じ傘が戻っている。乾いたままのときもあれば、海水の匂いがするときもあった。彼女が忘れた赤い髪留めを柄に巻いておくと、次の木曜日には結び目だけが固くなって返った。

六月最後の木曜日、雨谷は残業で日付をまたいだ。雨は上がっていたが、木曜日に降った雨で濡れた傘は、その日のうちに運ばなければならない。

エレベーターは十三階で止まった。

雨谷は外を見ず、黄色い傘を置いた。閉ボタンを二度押した。しかし扉は閉まらない。床の向こうから、傘の石突きがこつ、こつ、と近づいてきた。

規則には、十三階から傘を受け取ってはいけない、ともある。

雨谷は目を閉じたまま、自分の濡れたビニール傘を差し出した。すると手の中へ、別の柄が押し込まれた。細く、冷たく、握り癖のある黄色い柄だった。

十四階へ着いたとき、右手には傘が二本あった。黄色いほうには、見覚えのない部屋の鍵がぶら下がっていた。鍵札には彼女の字で「帰らない家」と書かれている。

雨谷はその鍵を使わず、傘立てへ二本とも入れた。

夜中、黄色い傘が玄関でひとりでに開いた。濡れた布から落ちた雫は床へ落ちず、天井へ向かって降り続け、その一本だけが赤い髪の毛になった。