五十三年後の待ち合わせ
妻を見送った翌年、牧村顕一は一度きりの時間遡行券を使った。
戻れるのは十二分間。歴史を変える行為と、過去の自分に正体を明かすことは禁止。顕一が指定したのは、一九七三年五月十二日、午後三時の中央駅だった。
そこは、高洲小枝子と初めて会った場所である。
駅の大時計の下に、二十二歳の小枝子がいた。黄色いワンピースも、緊張すると鞄の金具を三度触る癖も、記憶のままだった。
若い顕一は遅刻している。
あの日も十一分遅れて走ってきた。
老人の顕一は、彼女の隣へ立った。
「待ち合わせですか」
「ええ。写真しか知らない方と」
「その方は、よく遅れます」
「お知り合い?」
「五十三年ほど」
小枝子は不思議そうに笑った。
残り九分。
顕一は、葬儀の夜から言えずにいたことを話した。固有名詞だけを避けて。
「私は妻を愛していました。焦げた卵焼きを五十三年間食べました。旅行では必ず道に迷い、喧嘩をすると先に眠る人でした」
「ずいぶん悪口が多い告白ですね」
「褒めると、もういないことが本当になりそうで」
小枝子は少し黙り、訊いた。
「奥さまは幸せだったでしょうか」
「最後まで、聞けませんでした」
「では今、聞いてみたら?」
「もう届きません」
「案外、すぐ近くにいるかもしれませんよ」
残り一分。
顕一は規則を破った。
「高洲小枝子さん。あなたを愛しています。五十三年後まで、ずっと」
警告音が鳴り、景色が白くほどけ始めた。
小枝子は驚いたあと、老人の目をじっと見た。
「牧村さん」
「なぜ名前を」
「これから会う方の写真と、同じ困った目をしています」
遠くから若い顕一が走ってきた。
過去と未来の自分が、時計の下ですれ違う。
消える直前、小枝子が叫んだ。
「五十三年後にも遅刻しないでください!」
現在へ戻ると、家は相変わらず静かだった。
けれど顕一は、初対面の日の妻の言葉を思い出した。
――遅いですよ。五十三年分、待った気がします。
当時は妙な冗談だと思った。
小枝子はあの日から、知っていたのだ。
顕一は空いた椅子へ向かい、ようやく返事をした。
「間に合ったよ」
五十三年遅れの告白に、妻の笑い声が聞こえた気がした。