今年で最後のドライブ
丹比梓馬は、妻の汀が運転する車に乗るのが嫌いだった。
「もっと右へ寄れ」
「次の信号は左だ」
「ブレーキが遅い」
いくら忠告しても、汀は返事をしない。
両手でハンドルを握り、前だけを見ている。結婚していたころは、梓馬が運転席に座るのが当たり前だった。汀は道を覚えるのが苦手で、車線変更のたびに肩をすくめた。
それなのに、この三年は、毎年同じ日に一人で海沿いの道を走る。
料金所で汀が窓を開けると、係員は一人分の観光券だけを渡した。梓馬が手を伸ばしても、紙は指をすり抜けた。
「俺の分がないぞ」
汀は黙ったまま券を助手席へ置いた。
梓馬の膝の上なのに、重さは感じなかった。
サービスエリアで汀はコーヒーを一つ買った。以前なら必ず、梓馬の好きな無糖も買ったはずだ。戻ってくると、助手席のカップホルダーに小さな花束を置いた。
「そんなもの、どこへ持っていく」
答えはない。
海岸線の途中で、汀のスマートフォンが鳴った。車載スピーカーから姉の声がした。
『本当に一人で大丈夫?』
「うん。今年で最後にするから」
『車も手放すのよね』
「明日、引き取ってもらう。この道を走るのも、今日まで」
梓馬は胸がざわついた。
車がなくなれば、汀とここへ来られない。彼女はこの三年間、自分を無視していただけで、置いていったことはなかった。
「勝手に決めるな」
梓馬はハンドルへ手を重ねた。
汀の腕が震え、車が中央線へ寄った。
急なカーブの先に、白い花の束と、錆びた飲料缶が並んでいた。路肩の小さな慰霊板には、丹比梓馬という名前と、三年前の日付が刻まれている。
汀は車を止め、花束を供えた。
「あなたは、最後まで運転を代わってくれなかったね」
梓馬は、冗談だと思った。
自分は今もここにいる。話せるし、ハンドルにも触れられる。
帰り道、汀は泣いていた。
梓馬は何度も道を指示したが、彼女はわざと無視しているように見えた。
例のカーブへ差しかかったとき、梓馬は腹を立て、強くハンドルを切った。
車が対向車線へはみ出す。
汀が悲鳴を上げた。
「お願い、もう運転しないで!」
その言葉を聞いて、梓馬は思い出した。
三年前の同じ夜、酒を飲んだ自分からハンドルを奪おうとした汀も、まったく同じことを叫んでいた。