他人の名で帰る汽車

大正十一年の春、葛城津祢の前へ、死んだはずの伏屋弥太郎が現れた。

駅の外套預かり所で、彼は別人の名を名乗った。

「片桐慶作です」

けれど左眉の傷も、緊張すると親指の爪を撫でる癖も、津祢が知る弥太郎そのものだった。

四年前、出征列車の中で弥太郎と戦友の慶作は、同じ頭文字の認識票を冗談で交換した。

その夜の砲撃で慶作は死に、弥太郎は記憶を失った。

遺体は弥太郎として葬られ、生き残った男は慶作として収容所へ送られた。

帰国船の中で記憶が戻ったときには、伏屋弥太郎の死亡は確定していた。

津祢は死亡通知を受けたあと、弥太郎の弟へ嫁いだ。

伏屋家の旅籠を守るためだった。

今では三歳の娘がいる。

「名を戻せばいい」

津祢は言った。

「役所へ行けば、間違いだと」

「戻したら、君は兄の許婚だった女から、兄の妻になるのか」

「そんなことは」

「弟はどうなる。あの子は」

待合室の窓から、津祢の娘が父親の手を引いて歩くのが見えた。

弥太郎の弟は、兄によく似ていた。

けれど娘が笑いかける相手は、間違いなく父だった。

津祢は帯の内側から、小さな木札を出した。

弥太郎が出征前に彫った、二人の名の一字ずつ。

「ずっと持っていました」

「捨ててくれ」

「生きていた人に、死んだ人の頼み方をしないで」

二人は泣かなかった。

泣けば、四年間のどこかへ戻れるような気がしたからだ。

汽車の時刻が来た。

弥太郎は片桐慶作の旅券を握った。

「これから、どこへ」

「慶作の故郷へ。墓へ名を返す」

「そのあとは?」

「まだ誰の名でもない場所へ行く」

津祢は木札を渡そうとした。

彼は受け取らなかった。

「それは君の中の弥太郎だ。俺が持てば、今の暮らしから君を連れ出す」

列車が入る。

津祢は最後に、昔の名を呼んだ。

「弥太郎さん」

彼は一度だけ振り返った。

返事はしなかった。

返事をすれば、その名で帰ってきたことになる。

汽車は春の煙を残して去った。

運命のいたずらは、二枚の認識票を入れ替えただけだった。

けれど四年後、それを元へ戻すには、育った家族も、守られた旅籠も、子どもの父の名も、あまりに多くの人生を裏返さなければならなかった。

津祢は木札を帯へ戻した。

生きて帰った人を、死んだ許婚としてだけ覚え続けるために。