代役の名前で呼ばないで

〈追憶演技社〉では、亡くした人との最後の会話を俳優が再現する。

久宝笑里が依頼したのは、事故で死んだ婚約者・景清との別れだった。

担当俳優の阿久津黎人は、映像、日記、音声記録を三か月学び、笑い方から箸の持ち方まで身につけた。

最初の面会で、笑里は彼を見て泣いた。

「ただいま」

黎人は景清の声で答えた。

「おかえり」

予定は全六回だった。

しかし笑里は延長を重ねた。

二人は景清が行きたがっていた水族館へ行き、誕生日を祝い、最後の喧嘩をやり直した。

演技中、黎人は彼女を愛する男だった。

演技が終わると、控室で彼女が残した紅茶を一人で飲んだ。

いつしか、役ではない自分も笑里を好きになった。

十二回目の面会で、笑里は言った。

「今日で終わりにします」

「契約は、あと二回」

「もう景清に言えることがないから」

黎人は台本を閉じた。

最後だけは、自分の声で話した。

「笑里さん。僕はあなたが好きです」

彼女は驚いたが、目をそらさなかった。

「いつから?」

「景清として会うのが苦しくなった頃から」

「では、最初から嘘だったの?」

「演技は嘘です。でも、あなたが泣くと苦しかったのは本当でした」

笑里は長く黙った。

「私、阿久津さんに救われました」

その呼び方だけで、黎人の胸が少し明るくなる。

けれど続く言葉は、静かにそれを消した。

「だからこそ、あなたとは付き合えません。あなたの顔を見るたび、景清へ戻る入口にしてしまう。阿久津さんを好きになるのではなく、景清を失わない方法として抱きしめてしまう」

「待てます」

「待たせたら、あなたはまた代役になる。今度は、未来の私が好きになるかもしれない誰かの」

正しい拒絶だった。

最後の演技が始まる。

黎人は景清の声に戻った。

「もう来なくていい」

笑里が泣きながら言う。

「分かった」

「忘れない」

「忘れなくていい。僕のいない日を増やして」

台本どおり、二人は背を向けた。

振り返ってはいけない場面だった。

扉が閉まる直前、笑里が一度だけ呼んだ。

「阿久津さん。ありがとうございました」

黎人は振り返らなかった。

振り返れば、その声を恋の続きにしてしまう。

契約終了後、衣装を返し、景清の癖を一つずつ捨てた。

最後まで捨てられなかったのは、笑里の名前を呼ぶときだけ、自分の声が少し優しくなる癖だった。

彼の片思いは届かなかった。

けれど代役ではない名前で別れを告げてもらえたことだけが、演技ではなかった二人の記憶になった。