余命手当

比良坂征路の会社では、昇進すると「余命手当」がついた。

課長は二年、部長は五年、役員は十二年。会社が社員へ寿命を与えるのではない。社員が将来の年月を会社へ差し出し、その対価として高い給与と地位を受け取る制度だった。長く働ける者ほど、長く働かなくてよい老後を失う。

征路は三十七歳で課長になった。住宅ローンと双子の教育費を考え、二年なら安いと思った。

四十三歳で部長候補に選ばれた。妻は反対した。

「五年って、退職後の五年でしょう。今の五年じゃないから、軽く見えるだけよ」

征路は契約した。給与は倍になり、家族は広い家へ移った。けれど帰宅は遅くなった。娘たちの卒業式には祝電を送り、妻との銀婚式には秘書が花を手配した。

五十四歳の健康診断で、端末に赤い数字が出た。

〈契約反映後予測死亡日まで、残り三年九か月〉

征路は初めて、定年より死の方が早いと知った。役員昇進の内示は、その午後だった。さらに十二年を差し出せば、死亡日は八年前になる。制度上、足りない年月は「遡及徴収」とされ、契約成立時に即死する。

人事担当者は困ったように笑った。

「名誉職としてお名前だけでも。ご家族へ役員死亡給付が出ます」

征路は、自分の葬式まで会社の福利厚生に組み込まれていることに気づいた。

内示を断り、その日のうちに退職届を出した。妻へ電話すると、長い沈黙のあとで「夕飯、何がいい」と聞かれた。

征路は答えられなかった。家で何を好んで食べていたか、自分でも分からなかった。

残りの三年九か月、彼は家族との予定を詰め込もうとした。旅行、写真、記念日。だが娘たちは仕事があり、妻にも友人と趣味があった。会社へ渡さなかった時間まで、自分のものではなかった。

そこで征路は、毎週水曜だけ夕食を作ることにした。最初は塩辛く、二か月目にようやく妻の好みを覚えた。娘たちが来ない夜も二人で食べた。

予測死亡日を過ぎた朝、征路は台所で目を覚ました。制度の数字は統計であって、運命ではなかったらしい。

彼は笑い、会社から届いた「契約満了のお知らせ」を破った。

会社に売った七年は戻らない。けれど、その七年が何だったかを初めて想像できた。役職のない朝に、妻の味噌汁へ葱を刻むような、誰にも評価されない年月だった。