余白の仕事
私の名は余白。古書店の帳場で十九年、客が本を選ぶところを見てきた猫だ。
若いころは棚の頂上まで一跳びだった。今は二段目にも椅子が要る。耳も遠くなり、店主が缶を開ける音を聞き逃す。けれど、人間がページをめくる指の震えなら、まだ分かる。
あの子が初めて来たのは、小学三年の夏だった。
「声に出して読む宿題が、あるの」
言葉の最初で息がつかえ、同級生に笑われるのだという。店主は忙しそうなふりをして、私を窓辺へ置いた。
あの子は絵本を開き、私の背中に手を乗せた。
「む、むかし、あるところに」
私は喉を鳴らした。ごろ、ごろ、ごろ。
あの子は、その振動に合わせて息を吐いた。
「むかし、あるところに」
今度は言えた。
それから毎週、同じ時間にやって来た。つかえると、私の背中で呼吸を整えた。私は別に励ましてはいない。ただ昼寝をしていただけだ。猫は人間の成長を手伝ったなどと、軽々しく認めない。
中学生になると、読む本から絵が減った。高校生になると制服が変わり、やがて来なくなった。
人間はページより速く進む。
私だけが帳場に残り、毛並みを白くし、眠る時間を増やした。
ある午後、店の扉が開き、大勢の子どもの匂いが入ってきた。先頭の女が私を見るなり、口元を両手で覆った。
「余白、まだここにいたの」
声を聞くより先に分かった。耳の後ろを、二度撫でてから一度掻く指。あの子だった。今は小学校の先生だという。
子どもたちを床へ座らせ、昔の絵本を開いた。
「途中でつかえても、急がなくていいからね。物語は逃げません」
最初の一文で、ほんの少し息が止まった。
私は重い体を起こし、彼女の膝へ前脚を置いた。もう大きな音では喉を鳴らせない。それでも彼女は笑い、私の小さな振動を待った。
「むかし、あるところに」
子どもたちが続きを待っている。
私は目を閉じた。眠かったからではない。
あの子の言葉に、もう私が入り込む余白はないと分かったからだ。
けれど読み終えたあと、彼女は昔と同じ場所を掻いてくれた。
「余白がいてくれたから、私、先生になれたよ」
それは違う。歩いたのは彼女だ。
私はただ、つかえた言葉の隣で眠り、次の一息が来る場所を空けていただけなのだ。