余白の待ち合わせ
日下部紬が集合住宅の「ご自由にどうぞ」棚から持ち帰った古い恋愛小説には、鉛筆の書き込みがあった。
〈どうしてここで待つの〉という丸い文字。その下に、別の細い字で〈迎えに行く勇気がないから〉。読み進めるほど、二つの筆跡は会話をしていた。
だが途中で、紬は息を止めた。丸いほうは十七歳の自分の字だった。高校時代、妹に貸したまま引っ越しで消えた本だ。返事の書き込みは最近のものらしく、黒鉛が指についた。
高校時代の紬は、物語の人物へ文句を書く癖があった。澪はその横へ勝手に返事をし、二人で一冊をうるさくしていた。だが就職と親の介護方針をめぐって口論してから、連絡は誕生日のスタンプだけになった。管理人に尋ねても寄贈者は記録しておらず、猪瀬は「面白い交換日記ですね」と他人事だった。澪へ直接聞けば早い。そう思うほど、外れた時の気まずさが怖かった。
本に触れられた候補は、棚を整える管理人の鷺沢、読書好きの隣人・猪瀬、先月この町へ越してきた妹の小沼澪だった。
手掛かりは三つ。返事の中に、家族しか知らない紬の昔の呼び名「つむ姉」。百四十三頁に残るレモンのハンドクリームの香り。そして最後の折り目は、澪が上京した日に姉妹で待ち合わせた駅の場面についていた。
棚の前で何度も澪の部屋番号を押しかけてはやめた。返されたかったのは本なのか、妹との時間なのか、自分でも分からなかったからだ。最後の返事には〈待つ人も、少しは歩いていい〉とあった。紬はその文に背中を押され、階段を一階分上った。
紬は妹の部屋を訪ね、本を差し出した。
澪は観念したように玄関へ座り込んだ。
「引っ越しのとき、勝手に古本屋へ売ったの。ずっと言えなかった」
何年後かに偶然買い戻したが、謝るきっかけを失った。姉の昔の書き込みを読み、返事を書くうち、もう一度同じ棚へ置けば見つけてもらえるかもしれないと思ったという。
「でも、迎えに行く勇気がないって、自分で書いてるじゃない」
「だから棚に置いた。玄関までは来られなかった」
紬は腹を立てる準備をしていたのに、余白に並ぶ不器用な返事を見ると、長い年月まで叱れなかった。
近所の自販機で温かいミルクティーを二本買い、外階段に座る。澪が小さく「ごめん」と言った。
紬は缶の甘さを一口飲んだ。
「次は余白じゃなく、先に呼んで」