余白は校正紙の上で眠る
私の仕事は、他人の文章から間違いを探すことだ。
出版社の校閲部で一日じゅう赤鉛筆を握り、帰宅してからも持ち帰ったゲラを読む。誤字は目に刺さるのに、自分の疲れだけは長いこと見落としていた。
その白猫は、マンションの共用廊下に三晩続けていた。
初日は非常階段の踊り場。二日目は私の部屋の前。三日目には、買い物袋を提げた私の足元から、当然のように玄関へ入った。
「そこ、うちです」
猫は尾を一度振った。承知している、という態度だった。
首輪も迷子札もなく、管理人にも心当たりがない。保護猫の掲示を出しながら、とりあえず「余白」と呼んだ。真っ白だったからでもあるし、私の生活に残っていなかったものだからでもある。
余白は紙が好きだった。正確には、私が読もうとする紙の上が好きだった。
机にゲラを広げれば、三秒で中央へ座る。
「そこ、主人公が謝る大事な場面」
前足をどけると、今度は伏せ字のように尻尾を置く。抱き上げれば不満そうに鳴き、床へ下ろした途端、また上る。
仕方なく休憩して茶を淹れると、余白も窓辺へ移り、夜の硝子に鼻を近づけた。
そんな攻防を続けるうち、私は二十五分ごとに立つようになった。茶を淹れ、背を伸ばし、余白の水を替える。目の奥の痛みが薄れ、以前なら朝までかかった仕事が、不思議と早く終わる日もあった。
ある夜、著者から長い礼状が届いた。細かな誤りを拾ってくれたことへの感謝が並び、最後に「どうか眠ってください」と書かれていた。冗談だろう。けれど、その一文にだけ赤線を引きたくなった。
私は午前一時を回ったゲラを閉じた。
余白はもう布団の中央で丸くなっていた。
「そこ、私の場所」
少し押すと、猫一匹ぶんだけ横へずれる。空いたところへ体を滑り込ませると、背中に温かな毛が触れた。
翌朝、校正紙の端には小さな肉球の跡がついていた。インクでも泥でもなく、昨夜こぼした茶の薄い染みだった。
直そうと思えば直せる。でも私は、その頁だけ何も書き込まずに返した。
余白には、残しておいた方がよいものもある。枕元では白い腹がゆっくり上下し、部屋には茶葉と陽だまりの匂いが満ちていた。