保留音が切れたあと

八木橋芙美の退職届は、ヘッドセットより薄かった。細野梢はそれを見て、もっと重いものを想像していた自分に腹が立った。

二人は通販会社のコールセンターで隣の席だった。芙美は怒鳴る客の声を家まで持ち帰ってしまう。梢は、声は回線の向こうに置いて帰れると言う。辞める芙美に梢は「慣れれば」と言い、芙美は「慣れたくない」と返した。それから三日、昼食の時間だけが五分ずつ短くなった。

最終週の水曜、芙美の回線に若い女性から電話が入った。登録住所を変更したいが、同居人に通知を見られたくないという。本人確認の途中で、背後から男の声がした。女性の声が急に平らになり、「やっぱり結構です」と言った。

規定では、申し出が取り下げられたら通話を終了する。平均処理時間はすでに赤く点滅していた。

芙美は終話せず、保留ボタンを押した。安全相談の専門窓口へつなぐには、上席の承認が要る。

「感情的なお客様で処理して」

巡回してきた主任は、画面を一度見ただけで言った。

芙美の手が止まる。あと四日で辞める人間が規定と争えば、「最後まで面倒だった」で片づけられる。梢はそう考えた。残る自分が主任に逆らえば、来月の評価に残る。それも考えた。

それでも梢は、自分の受電ランプを「離席」に変えた。芙美の机まで椅子を滑らせ、通話記録の画面を開く。

「時刻、私が拾う。あなたは聞こえた言葉を書いて」

長い励ましではなかった。芙美はうなずき、保留を解除して、本人だけが答えられる短い質問を一つした。女性は小さく「はい」と言った。

二人は専門窓口への緊急転送を申請し、背後の声、突然変わった口調、通知を避けたいという希望を、順番に記録した。主任は応答率を指さしたが、梢は画面から目を離さなかった。

転送が完了すると、受話口には保留音の代わりに静かな呼び出し音が残った。

「私は、ここに残れない」

「私は、まだ残る」

梢は芙美の判断を正しいとは言わず、芙美も梢の我慢を強いとは言わなかった。

終業ベルが鳴ったあと、二人はヘッドセットを外した。主任が閉じろと言った記録票をもう一度開き、梢が確認者、芙美が対応者として名前を入れる。最後に二人で同じ画面を見て、送信ボタンを押した。