倒れると危ない箒

「箒は壁に立てかけるな。倒れると危ない」

魔法学院の用務員、榛名宗一は、放課後になるたび同じ注意をした。

だが生徒たちは聞かない。実技試験の興奮が残る教室には、折れた杖、焦げた答案、召喚陣の白墨が散らばっている。宗一は魔力を持たない東方人で、腰には剣どころか鍵束しかない。生徒から見れば、口うるさい掃除係にすぎなかった。

一年生のエルナだけが、忘れた校章を捜して教室へ戻ってきた。

「先生方は?」

「反省会だ。失敗した召喚陣ほど、本人がいなくなってから機嫌を損ねる」

冗談だと思った直後、床の白墨が黒く燃えた。

円の中心が裂け、犬に似た影が這い出す。魔力を食う災獣《黒喰らい》。教本では討伐に上級魔術師が五人必要とある。獣は鼻を鳴らし、女子寮の方角へ頭を向けた。

エルナは杖を構えたが、先端の宝石から光が消えた。魔力を吸われている。

宗一はため息をつき、壁に立てかけてあった箒を取った。

「だから言っただろう」

獣が跳ぶ。

箒の穂先が床を離れたのは、一度だけだった。

風も衝撃もない。ただ宗一の右手が、柄を半寸だけ送り出した。黒喰らいは彼の脇を通り過ぎたように見え、三歩先で止まる。遅れて額から尾まで一本の白い線が走り、影の体は音もなく灰へほどけた。

壁も机も、すぐそばのエルナの髪一本さえ切れていない。

《無拍子》。剣を抜いたことすら悟らせず、魔の核だけを断つ技。学院史の片隅に、百年前の剣聖が一度だけ使ったと記されている。

宗一は驚くエルナをよそに、ちり取りで灰を集めた。裂けた召喚陣には洗剤を垂らし、黒ずみごと白墨を拭き消す。最後に床へ保護蝋を塗れば、災獣が現れた痕跡は、焦げた答案より先に消えた。

「見たことは……」

「忘れ物を取りに来ただけだろう」

灰の中には、災獣が呑んだはずの魔力結晶も残っていた。宗一はそれだけを薬品棚へ戻し、壊れた備品の数まで帳面に合わせた。

宗一は校章を拾い、彼女の手に載せた。それから箒を床へ寝かせ、何事もなかったように次の教室へ向かう。

扉を閉める直前、振り返って言った。

「箒は壁に立てかけるな。倒れると危ない」