借りた赤
依子は化粧を「仕事と関係のない手間」と呼び、岬は口紅を「顔に置く句読点」と呼んだ。
同居して二年、二人はその件で一度も歩み寄っていない。
午前九時、依子は居間のパソコン前で、社内の聞き取り面談を待っていた。会議の議事録から、自分の発言だけが削られていたこと。抗議した翌月、担当から外されたこと。画面の端には、提出済みの資料が四つ並んでいる。
「カメラ、白飛びしてる」
出勤前の岬が、鏡をのぞくように画面へ顔を寄せた。
「内容は変わらない」
「変わらないけど、唇かんでるのは見える」
依子は口を閉じた。緊張すると皮をかむ癖がある。岬はポーチから深い赤の口紅を出した。
「いらない」
「知ってる。貸すだけ」
依子はしばらく見てから受け取った。鏡を使わず、輪郭から少しはみ出して塗る。岬が綿棒で直そうとした手を、依子は避けた。
「これでいい。今日はきれいに見せたいんじゃないから」
「じゃあ、句点だけ」
岬は充電器を差し、水の入ったグラスと、資料のページ番号を書いた付箋を机へ置いた。自分はカメラの外、床に座る。
面談が始まった。人事は丁寧な声で、記憶違いの可能性を三度尋ねた。依子は三度、日付とファイル名で答えた。四度目に上司の名前を口にしたとき、唇の赤が画面の中で動いた。
上司は「女性社員同士の行き違い」とまとめようとした。依子は、削除された発言の共有先に男性社員も三人いたと指摘した。カメラの外で岬はうなずかない。代わりに、資料の四ページ目を指先で二度たたいた。依子はそこを開き、修正前後の差分を一行ずつ読み上げた。
面談が終わると、岬の出勤時間は過ぎていた。
「遅刻するよ」
「今日は店長面談」
岬はスマートフォンを見せた。客から受けた身体への言葉を報告する文面が、送信直前で止まっていた。これまで店では、笑って流すのが接客だと言われてきた。
依子は口紅を返した。
「句点、いる?」
岬は受け取り、自分の唇へ同じ赤を引いた。二人は似合うとも、頑張れとも言わなかった。
依子がパソコンの録音データを添付し、岬が報告書を開く。
画面の違う二つの送信ボタンを、二人は同じ指で押した。