傘を忘れた人
雨の夜、鷺宮篤人は駅の忘れ物窓口で、一人きりの宿直をしていた。
午前零時を過ぎると、ガラス戸の向こうに制服姿の女が立った。髪も肩も濡れていないのに、足元だけに水たまりができていた。
「傘を忘れました」
女は高校時代の同級生、咲耶だった。
十二年前、卒業式の翌日に川で亡くなった。
篤人は驚くより先に、棚を見た。黒、紺、透明。毎日何十本も届く傘の中に、咲耶のものがあるはずはない。
「特徴は」
「赤。柄に白い鳥」
「そんな派手なの、見たら覚えてる」
「あなたが持ってる」
篤人の手が止まった。
高校三年の梅雨、咲耶は赤い傘を貸してくれた。翌日返すつもりだったが、二人は些細なことで喧嘩した。
篤人が進学で町を出ることを、咲耶は最後まで知らされていなかった。
「友達なら言うでしょ」
「言ったら、引き止めるだろ」
「引き止めてほしくないなら、友達じゃないみたい」
そう言われ、腹が立って傘を返さなかった。
実家の物置に、今もある。
「忘れたのは、そっちだろ」
「忘れ物は、忘れた人のところへは取りに行けないの」
咲耶はガラス越しに手を出した。
けれど窓口の内側には入れないらしい。
篤人は宿直室の電話で、実家の父を起こした。物置の段ボール、古い教科書の下。父は文句を言いながら探し、赤い傘を見つけた。
「今から持ってきて」
『夜中の一時だぞ』
「頼む」
父は四十分後、寝巻きの上にコートを着て現れた。
咲耶の姿は見えないらしく、篤人を怪しそうに見て傘だけ置いて帰った。
篤人が窓口から差し出すと、咲耶は受け取らなかった。
「返すだけ?」
「ほかに何がある」
「十二年も延滞したのに」
篤人は赤い布地を見た。白い鳥は少し剥げていた。
「黙って町を出て、ごめん」
咲耶は動かない。
「傘を返さなくて、ごめん」
まだ動かない。
「葬式に行かなかった。帰れば、ずっと友達だったことを認めるみたいで怖かった」
咲耶がやっと柄を握った。
「遅い」
「うん」
「十二年」
「延滞料、いくら」
「一生、雨の日に思い出すこと」
咲耶は笑い、傘を開いた。
室内なのに赤い布がふくらむ。その下で、制服姿が少しずつ見えなくなった。
床には水たまりだけが残った。
篤人はモップを持ってきたが、拭く前にやめた。
始発が動く頃、水は自然に乾いた。
忘れ物台帳には、赤い傘一本、返還済みと記した。
受取人の欄には、咲耶の苗字を書けなかった。
代わりに、友人、と書いた。