傘一本ぶんの境界

二十時五十分。瀬良史弦は駅前の傘修理店で、久慈川澄花と一本の透明傘を受け取った。閉店まで十分。外は、歩道が白く煙るほどの雨だった。

五年前、急な夕立に降られた二人が、コンビニで半額ずつ出した傘だ。どちらかの部屋に置き忘れるたび持ち主が替わり、骨が曲がれば次に持ったほうが直した。柄には青と赤の細いテープが巻かれ、一本なのに二人分の印がある。一本へ肩を寄せると、史弦の右袖か澄花の左袖が必ず濡れた。どちらが濡れるかで喧嘩しながら、別々の傘を買おうとは一度も言わなかった。

「今日で最後にしよう」と澄花が言った。「今夜、会う人がいるから」

淡い色のワンピースも、普段より丁寧に巻いた髪も、その人のためなのだろう。史弦は傘を開き、修理された骨を確かめた。

「似合ってる。友達として保証する」

「そこ、わざわざ付けるんだ」

「変に期待させたら悪いだろ」

澄花は笑ったが、目は笑わなかった。店員が会計を済ませる間、彼女は何度もスマートフォンを伏せて置いた。

「駅まで入れてくれる?」

「迎えが来るんじゃないの」

「来るかもしれないし、来ないかもしれない」

意味を測っているうちに、黒いタクシーが店の前へ止まった。澄花は傘を史弦へ渡した。

「それ、持ってて。もう一本で歩く理由ないから」

「相手と二人なら、なおさら要るだろ」

「そうだね」

二十時五十八分。澄花は濡れた歩道を数歩走り、タクシーへ乗った。ドアが閉じた直後、史弦の画面に、三分前に送られたメッセージが届いた。豪雨で通信が遅れていた。

〈今夜の人、断るつもり。史弦が一度でも友達以外で見てくれるなら、駅前で止めて〉

続けて、未送信だったらしい短い文が届く。

〈傘一本で足りる二人になりたかった〉

史弦は車道へ出かけた。けれどタクシーの赤い灯は、交差点の向こうでほかの尾灯に紛れた。電話をかけても、澄花は出なかった。

修理した傘を開けば、駅までは濡れずに歩ける。史弦は青と赤のテープを一度握り、傘を畳んだまま雨の中へ出た。