八十円ぶんの沈黙
私は、八十円切手を貼られた恋文である。
差出人は古波蔵利央、宛先は八重樫蛍。平成二十二年八月三日、商店街の赤いポストへ入れられた。中身は便箋一枚。書き直しの跡が多く、最後の二行だけ妙に強い筆圧だった。
残念ながら私は、集配袋から仕分け台へ移される途中、棚と壁の隙間へ落ちた。
暗闇には、期限切れの割引葉書と、宛名のにじんだ暑中見舞いがいた。
「恋文は腐りやすいよ」
葉書が言った。
私は反論した。紙は腐らない。恋も、たぶん。
二十五年後、郵便局の改装工事で発見された。切手代はとっくに変わっていたが、郵便局員は私を透明な袋へ入れ、まず蛍の旧住所へ送った。転居先不明。次に利央の実家へ戻した。
五十歳になった利央は、私を見るなり座り込んだ。
「おまえ、今ごろ帰ってきたのか」
彼は封を切らなかった。内容を覚えていたからだ。
数日後、私は同窓会へ連れていかれた。背広の内ポケットは蒸し暑く、外から懐かしい名前と笑い声が聞こえた。
「古波蔵くん、変わらないね」
蛍の声だった。
利央の心臓が急に速くなった。私は内側から背広を押した。ここまで来たのだ。二十五年遅れでも、配達は配達である。
二人は昔話をした。閉店した駄菓子屋、数学教師のあだ名、あの夏の駅。
「私、八月七日、ずっと改札で待ってたんだよ」
蛍が笑った。
「利央くんから手紙が来る気がして。若かったなあ」
「……来なかった?」
「来なかった。だから東京へ行った」
私の中には、こう書かれていた。
〈八月七日、六時に駅で待っています。来てくれたら、一緒に東京へ行きたい〉
利央は内ポケットへ手を入れた。しかし蛍の携帯電話が鳴り、画面に孫らしい子どもの写真が映った。
「ごめん、家族が迎えに来たみたい」
利央の手が止まった。
「それ、何か入ってるの?」
蛍が膨らんだポケットを見た。
「昔の、出しそびれた請求書」
「払わないと」
「もう時効だよ」
蛍は笑って帰った。
私は結局、渡されなかった。切手は剥がされず、便箋も読まれず、利央の机の引き出しにいる。
葉書は間違っていた。紙は腐らない。
だからこそ、恋文は残酷なのだ。
届くはずだった時刻を、いつまでも新しいまま抱えている。