八度を越えない道

樫尾千景が血液検査用の箱を受け取ったのは、夜勤が明ける三十分前だった。郊外の診療所から大学病院へ、手術前の検体を九時までに運ぶ。箱は二度から八度を保つ。それがコールドチェーンの約束だった。

幹線道路へ出た直後、荷台の温度ロガーが五・九度を示した。まだ許容内だが、数字は一分ごとに上がっている。助手は事故渋滞を見て、裏道へ曲がろうとした。

「近道なら十五分縮みます」

千景は曲がらせなかった。裏道には踏切が二つあり、止まれば読めない。まず安全帯を外し、箱の周囲を触った。左側だけがぬるい。

原因は渋滞ではなく、荷台暖房の吹き出し口だった。早朝に積んだ常温便のため、前の班が送風を入れたままにしていた。千景は暖房を切り、箱を床から浮かせて中央へ移し、予備の保冷材を外側へ回した。急に冷やしすぎれば、今度は下限を割る。保冷材を直接当てず、緩衝材を一枚挟んだ。

六・一度で上昇が止まり、五・八、五・四と戻った。

「近道より先に見る場所がありましたね」

助手が言った。

千景は前方の信号を見たまま、病院へ連絡した。到着見込みだけでなく、最高温度と継続時間を伝える。黙って届けば間に合ったことにはなるが、検体を使うか決めるのは運ぶ側ではない。

受領口には手術着の技師が待っていた。彼はロガーを確認し、受領時刻を八時四十七分と記入した。

「この推移なら使えます」

その一言で、助手の肩が落ちた。

病院へ渡すのは箱だけではない。千景は途中の操作時刻、保冷材を追加した時刻、送風を切った時刻を運行記録に書いた。数字が範囲内でも、何をしたかが不明なら検査側は判断できない。助手は近道の地図を閉じ、温度の折れ線を写真に残した。

千景が空箱を固定すると、無線が鳴った。別の診療所で、今度は凍結便が一本待っている。夜勤は終わったはずだったが、温度計の表示はもう次の仕事のためにゼロへ戻っていた。

助手は箱を固定し直し、記録用紙の余白に送風口の位置まで描いた。次の担当者が同じ数字を見たとき、原因を最初から探さずに済む。