六月一日の辞退届
結月は、婚姻届より先に、研修の辞退届へ名前を書くことになった。
社内で年に一人だけ選ばれる半年間の専門研修。参加すれば、今の補助業務から設計担当へ移れる可能性がある。開始日は六月一日だった。
その六月一日は、壮介と小さな式を挙げる日でもある。予約したときには研修の募集さえ始まっていなかった。日程変更はできるが、会場の前金は戻らない。研修も次年度に募集される保証はない。
会議室で渡された辞退届には、理由を書く欄が三行あった。結婚のため、と書けば簡単だった。誰も責めない理由になる。けれど結月は、その言葉を盾にしたくなかった。
壮介からは朝、二件のメッセージが届いていた。
〈研修、受けていいと思う〉
その三分後に、
〈でも六月一日を楽しみにしてたのも本当〉
机の上で、研修の銀色の受講証と、式場でもらった生成りの招待状が重なっている。受講証を取れば、壮介は待つと言うだろう。招待状を取れば、上司は次の機会があると言うだろう。二人とも、結月の代わりに残念がってはくれない。
机の端には、研修で使う新品の方眼ノートと、式当日に履く靴の箱が置かれていた。どちらもまだ汚れていない。その白さが、選べばきれいな未来になるという嘘に見えた。
二十九歳を前にして、選択には正解があると思い込んでいた。成長を選べば自立した女性で、結婚を選べば古い価値観に負ける。そんな採点表を、結月はいつの間にか自分の中へ置いていた。
けれど、六月一日に壮介と同じテーブルにつきたいのは、誰かにそうしろと言われたからではない。研修を諦める痛みごと、それを望んでいる。
辞退理由の欄に、結月は書いた。
〈私的な予定を優先するため〉
結婚とは書かなかった。研修が不要だとも書かなかった。来年受けられるとも、自分を慰めなかった。
受講証を封筒へ戻し、招待状の角を指で整える。提出箱の前で一度だけ息を止め、辞退届を落とした。
乾いた紙の音がした。六月一日を選んだ音だった。