冷めない一杯
喫茶「北窓」の閉店札を裏返したとき、折原朔は、入口の外に立つ若者に気づいた。
息子の千鶴夫だった。三年ぶりに見る顔は、父親より先に老けたように見えた。
「もう閉店だ」
「知ってる」
「じゃあ何だ」
「コーヒー」
朔は追い返そうとして、やめた。千鶴夫は昔から、頼みごとをするときほど命令口調になる。
店内に入れ、カウンターの端へ座らせた。深煎りを一杯だけ淹れる。息子はブラックが飲めないはずだったが、砂糖もミルクも出さなかった。
千鶴夫は両手でカップを包んだまま、口をつけない。
朔はレジを締め、灰皿を洗い、明日の豆を量った。
十分たっても、コーヒーからは湯気が立っていた。
三十分たっても同じだった。
朔は、その湯気を知っていた。
妻を病院へ送らなかった夜、自分のカップも朝まで熱かった。誰にも話さず、謝る相手がいなくなってから飲み干した。舌を火傷しただけだった。
「母さんのこと?」と千鶴夫が言った。
「何が」
「あの日、俺が電話に出てたら、救急車を呼べた」
「お前は修学旅行中だった」
「圏外じゃなかった。友達といたくて、電源を切ってた」
朔は布巾を絞った。
「それを、三年かけて言いに来たのか」
「三年かけても、言えなかった」
湯気が、二人の間に白い壁を作る。
朔は息子のカップに手を伸ばした。熱かった。
「お前が出ても、結果は同じだった」
「慰めるなよ」
「慰めてない。医者にそう言われた」
「じゃあ、なんで教えなかった」
「お前が俺を責めてたからだ」
「父さんが俺を責めてると思ってた」
二人は同時に口を閉じた。
三年間、同じ重さの石を、相手の鞄に入れたつもりで背負っていた。
千鶴夫がカップを持ち上げた。
「ごめん」
朔は首を振った。
「俺もだ」
湯気が消えた。
千鶴夫は一口飲み、顔をしかめた。
「冷たい」
「三年も置けばな」
朔は初めて砂糖壺を出した。息子は三杯入れた。
その幼い手つきを見ながら、朔はもう一杯、自分のために淹れた。
今度のコーヒーは、普通に冷めていった。