冷蔵庫の三行

管理会社の立ち会いまで、あと十分だった。

空になった部屋で、朔也は冷蔵庫の電源を抜いた。低い唸りが止むと、三年間の生活が急に静かになった。千景は玄関で合鍵を外し、白い封筒の上に置いている。

「製氷皿、捨てていい?」

「うん。もう使わないし」

二人分だったものが、次々に単数形になっていく。冷蔵庫の側面には、旅行先で買った猫の磁石だけが残っていた。千景が無言で外し、どちらの箱にも入れず窓辺へ置いた。

朔也は冷蔵庫の扉についた小さな液晶を初期化しようとした。買い物リスト、賞味期限、互いに残した短いメモ。同期解除を押すと、未送信のメモが一件あると表示された。

〈検査薬、買ってきて〉

〈たぶん、できた〉

〈帰ったら話したい〉

作成日は、朔也の最終面接の前夜だった。

「これ、何」

千景は画面を見たまま動かなかった。やがて、合鍵を封筒へ押し込む。

「送らなかったやつ」

「知らない」

「送ってないから」

「じゃあ、そのあと……」

千景は窓の外を見た。引っ越しトラックのバック音が、遠くから近づいてくる。

「翌朝、だめになった。病院で聞いた」

「どうして言わなかった」

「面接、受かったって笑って帰ってきたから。お祝いの日にしたかった」

朔也は、あの夜のことを思い出した。高い肉を買い、缶ビールを二本開けた。千景は一口も飲まず、「おめでとう」と何度も言った。数週間後から、彼女は触れられるのを避けるようになった。朔也は、愛情がなくなったのだと思った。

「俺は、君が子どもを欲しくないんだと思ってた」

「私は、あなたが仕事以外を欲しくないんだと思ってた」

玄関のチャイムが鳴った。立ち会いの担当者だった。あと三分。

朔也は送信ボタンに指を置いた。今さら自分の端末へ転送して、何を残したいのか分からない。知らなかった自分を責める証拠か、まだ好きだった千景の証拠か。

「消して」と千景が言った。「あの日に届かなかったものだから」

朔也は下書きを削除した。液晶から三行が消え、冷蔵庫はただの白い箱になった。

担当者が入ってくる。千景は封筒を差し出した。朔也もポケットから自分の鍵を抜いた。

二本の合鍵は、別々の手から同じ封筒へ返された。