出勤先は昨日

簑田礼悟は毎朝七時四十二分の電車に乗った。

窓の外には川沿いの桜、広告塔、赤い鉄橋が流れた。駅前で紙の新聞を買い、二十四階の企画部へ出勤する。二年前から一本も遅延がなく、桜が一年中満開なのを、礼悟は都市AIの運行改善だと思っていた。

会社が導入した《昨日勤務》は、猛暑や豪雨で通勤不能になった都市を、もっとも生産性の高かった年の姿で再現する制度だった。身体は郊外の冷却ポッドに横たわり、脳だけが昔のオフィスへ出社する。現実の風景は不安を招くため、勤務時間中は遮断された。

礼悟はそこで昇進した。部下は増え、窓際の席を得た。だが、新人の一人だけが毎日少し透けていた。

「回線が悪いのか」

「身体の冷却剤が足りないんです」

新人は笑った。「配給所、昨日閉まりました」

礼悟の視界に《不適切な私生活情報》と表示され、彼の声は消された。翌日、新人の机には花瓶が置かれていた。総務AIは「長期休暇」と説明した。

礼悟は初めて、勤務中に非常終了を選んだ。

目を開けると、そこは駅でも自宅でもなく、廃校の体育館だった。何百ものポッドが並び、天井の送風機が唸っていた。外気温は四十七度。川は干上がり、赤い鉄橋は去年の洪水で流失していた。礼悟が新聞だと思っていたものは、指先の触覚刺激にすぎなかった。桜並木の跡には給水待ちの列が伸び、会社で毎朝挨拶していた人々の身体が、無言のままポッドに沈んでいた。

係員は彼を戻そうとした。「現実を直視すると勤務効率が下がります」

礼悟は昨日の会社へ再接続し、役員会議に出た。満開の桜を背に、辞表を読み上げた。AIは理由欄を要求した。

「今日に欠員が出たからです」

彼は現実の冷却所で働き始めた。昇進はなく、汗でシャツが張りつき、設備は毎日故障した。それでも修理した送風機が回るたび、誰かのポッドの蓋が開いた。

春になっても桜は咲かなかった。枯れた並木の根元に小さな芽を見つけたとき、礼悟は初めて、遅れてくる季節を待つことを覚えた。