分類外の退職届
相原茉莉は、退職届の下書きをスマートフォンに表示したまま、図書館のカウンターに立った。
「会社を辞める勇気が出る本、ありますか」
桐生志摩は赤鉛筆を耳に挟み、茉莉の顔ではなく画面を見た。細い黒縁眼鏡、灰色のシャツ、返事は一拍遅い。
「分類が違います」
「自己啓発じゃないんですか」
「あなたの相談が、です」
それだけ言って、桐生はカウンターの内側から出た。茉莉は腹が立ったが、赤鉛筆が迷いなく棚の間を進むので、ついていくしかない。
案内されたのは自己啓発でも転職でもなく、家計、労働、睡眠の三つの棚だった。
「辞めたい理由を一つだけ」
「上司が嫌いです」
「それは感情。困っている事実を一つ」
赤鉛筆の先が、メモ用紙の上で止まる。
茉莉はしばらく黙った。毎晩十一時までの残業。休日にも鳴る社用携帯。三か月前から止まった生理。けれど一番困っているのは、辞めた後の家賃だった。
「貯金が、二か月分しかありません」
「なら、勇気の棚ではありません」
桐生は家計簿の本を一冊、労働相談窓口の案内を一枚、睡眠記録の薄い冊子を一冊抜いた。赤鉛筆で案内の受付時間に丸をつける。
「先に残業記録を保存。次に固定費を出す。辞める日を決めるのは、その後」
「辞めるなってことですか」
「分類が違います。私は人生相談員ではなく司書です。本と情報の場所を示すだけです」
声は冷たい。けれど、桐生が選んだ家計簿には、最初のページに“数字は自分を責めるためでなく、逃げ道を作るために書く”とあった。
茉莉は閲覧席で一時間、家賃、通信費、奨学金、食費を書き出した。削れる額は少なかった。だが有給休暇の残りと、未払い残業代の概算を足すと、三か月半は持つ。
閉館前、再びカウンターへ行くと、桐生は赤鉛筆を削っていた。
「退職届、送ります」
「分類が違います」
またか、と茉莉が眉を寄せると、桐生はスマートフォンを指した。
「それは退職届ではなく、あなたが生活を選び直すための最初の資料です。件名を変えた方がいい」
茉莉は下書きの件名を削除した。
『退職のご相談』ではなく、『退職日の通知』。
送信を押す。赤鉛筆が机を一度たたいた。
「それなら、分類は決まりました」