切れなかったリボン

 最終審査の四分前、鳴海かすみは右足のトウシューズを見て息を止めた。

 淡い桃色のリボンが、結び目の三センチ下で切られている。自然にほつれた切り口ではない。刃物で一度に断った線だった。

 隣の鏡で髪を整えていた宇田川葉月が、口元だけで笑った。

「道具の管理も実力のうちよ。棄権するなら早く言えば?」

 半年前から、かすみのロッカーだけ鍵が固くなり、立ち位置の印だけ床から消えた。訴えるたび、葉月は偶然だと言った。

 かすみは返事をせず、衣装係から借りた裁縫箱を開いた。予備のリボンを縫いつける時間はない。切れた部分を内側へ折り、舞台衣装用の強い糸で三針だけ返し縫いする。幼い頃、祖母に教わった留め方だった。

「二番、入って」

 呼ばれた。

 控室の時計は三分を切った。かすみの指先には針が触れ、小さな血の玉が浮いた。祖母から譲られた裁縫箱の蓋には、《舞台では、壊れないことより直せることが強さ》と鉛筆で書かれている。かすみは血を拭き、縫い目を靴の内側へ隠した。葉月が「みっともない」と囁いたが、呼吸だけを数えた。

 音楽が始まる。最初の回転で足首へ張力がかかったが、三針は耐えた。葉月の顔も、切り口も、客席の暗がりへ沈んでいく。かすみは振付を小さく守らず、最後の跳躍まで予定どおり踏み切った。

 着地と同時に音が止まり、審査員席の中央で芸術監督が立った。

「結果発表の前に、確認があります」

 舞台脇のモニターへ、審査会場の映像が映った。不正防止のため、今年から控室前と道具置場も、遠隔審査員へ同時配信されていた。

 映像の時刻は、審査開始二十分前。葉月がかすみのロッカーを開け、トウシューズを取り出す。手の中で小さな鋏が光り、リボンへ触れた。

「糸くずを取っただけです」

 葉月の声が裏返る。

 監督が映像を一時停止した。鋏の刃に挟まれた桃色の切れ端まで、はっきり映っていた。

「宇田川葉月は、審査妨害により失格。育成契約も見直します」

 審査票が集め直される。

 監督は、まだ舞台中央に立つかすみへ向き直った。

「本年度の首席公演、その主役は鳴海かすみです」